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さて、中国に関することを、去る 一昨々年の10月22日(木)の「中国の話(鰻の蒲焼・762[味噌汁・カレーうどん・父親の食事])」のブログ そして 去る 7年前の3月24日(木)の「中国の話」のブログなどに記させて頂きました。
また、去る 8年前の11月14日(土)の「満州のこと」のブログの上段に、
「(前略)一昨々日 すなわち 11月11日(水)の『今上天皇陛下の お言葉』のブログ に、満州のことを記させて頂きました。また、去る11月23日(日)の『アロマ・テラピー』のブログの上段に、
『(前略)昭和60年夏(菜食を始める前のことです)、母校の先輩に勧められて、中国医学研究会で、教授と共に、 哈爾濱(黒竜江省)、 瀋陽、そして、北京の医科大学に表敬訪問したことがあります。(後略)』と記させて頂きました。さらに、 去る1月30日(金)の『 永代神楽祭』のブログ の上段に、
『(前略) 満州国の首都は 新京( 長春)でした。(後略)』と記させて頂きましたが、この 新京( 長春)から 約270km位の所に 瀋陽があります。この瀋陽にあります中国医科大学の日本語学科の男子学生と交流して、意気投合しました。
(中略)
意気投合して いろいろなことを話してくれました。彼によりますと、親から日本語を教えられたとのことでした。日本人からでなく、親からであります。しかも、日本に留学する意思があり、最初に 学校で 日本語を勉強したという訳では ありません。なお、満州で 日本人が 中国人から言われている それ相当なことをしているのであれば、そのような民族の言語は、親が子供に教えないと思われました。
(中略)
去る1月30日(金)の『永代神楽祭』のブログ の上段に、
『(前略)伯父は満州に暫く居た・・・(後略)』と記させて頂きました。伯父に導かれて、満州である ここ 瀋陽に行くことになったのかもしれません。満州に来たことは 使命であると思われましたので、前述のように、『親から日本語を教えられたとのことでした。日本人からでなく、親からであります。しかも、日本に留学する意思があり、最初に 学校で 日本語を勉強したという訳では ありません。なお、満州で 日本人が 中国人から言われている それ相当なことをしているのであれば、そのような民族の言語は、親が子供に教えないと思われました。』と記させて頂きました。
なお、瀋陽で 一行が 宿泊した 中流のホテルでは、通路に 南京大虐殺の展示が なされていました。因みに、これは、御承知のように 明らかに 虚構であります。
(中略)
および、このときは 昭和60年(1985年)の夏休みでしたので、昭和40年(1965年)頃から 約10年間に亘る 文化大革命終了後 約10年 経った位の中国でした。今と違い 日本人の個人旅行はまだまだ難しく、母校からの 医科大学への表敬訪問という形式で、しかも、集団でしたので、入国出来たとのことでありました。日本 と 中国で、医科大学同志の交流がありました。入国するためのビザ(英語:visa)を取得することが難しかったようであり、その費用が、一人につき 約3万円でした。(後略)」と記させて頂きました。なお、この出発日の午前中に 東京三多摩から 茨城県つくばの国際科学技術博覧会に、関西から来た 甥たち そして 母親を連れて行きました。すなわち、上記の海外旅行の荷物を持って 行きました。それから、待ち合わせの成田国際空港に 向かいました。それで、誠に有り難いことに、間に合いました。

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、今は亡き 母親と一緒に)

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、甥[次男]と一緒に)

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、甥[次男]と一緒に)

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、甥[次男]と一緒に)

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、甥[次男]と一緒に)

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、甥たちと一緒に)

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、甥たちと一緒に)

つくばの国際科学技術博覧会 会場(誠に有り難いことに、甥たちと一緒に)
なお、去る 4年前の2月25日(月)の「贈り物(鰻の蒲焼・257[父親の食事])」のブログの上段に、
「(前略)昭和60年(1985年)に、母親 と 二人の甥と 四人で、つくば科学博覧会に行きました。そのときに、下の画像の Tシャツを購入しました。なお、このTシャツ(新品)を、昨日 すなわち 2月24日(日)の『母親の一周忌』のブログに記させて頂きました 一周忌のときに 来てくれた 甥(次男)に あげました。 因みに、プレミアムが付いているといいね との話になりました。なお、甥(長男)は 要らない とのことでした。序で乍ら、後から インターネットで調べましたら、古着で 金9,720 円(税込)の値段が つけられていました。

甥に あげた つくば科学博覧会の Tシャツ
(後略)」と記させて頂きました。
ならびに、去る8月29日(火)の「母校の名誉教授を偲んで」のブログを記させて頂きました。すなわち、この名誉教授(当時は、助教授[当時の名称・現在では、准教授と言われますね])と 一緒に 上記のように 哈爾濱(黒竜江省)、 瀋陽、そして、北京の医科大学に表敬訪問しました。
および、日本との時差は、1時間であります。因みに、当時は 日本から 北京への直行便はなく、まず 上海迄 搭乗します。それから、国内線で、上海から 北京迄 搭乗しました。

主任教授と 共に(昭和60年[1985年]8月26日の日付が記されています)


空港にて(一番右の 5学年の先輩男子が、成田国際空港での待ち合わせに 遅れて来ました。それで、学部生 女性リーダー[当時4学年]が、陰で 言っていました)

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて

空港にて




空港にて

離陸後

離陸後








哈爾濱(黒竜江省)

中国人

中国人


黒竜江省 博物館



















鳥を持っている年配女性(中国人)




バス



麵づくり

麵づくり

麵づくり

麵づくり

麵づくり

麵づくり

麵づくり

麵づくり




ところで、日本の白酒であるならば まだ いいと思われるのでありますが、中国には イネ科の一年草 コーリャン(中国産のもろこしの一種)を 主原料とする 中国発祥の蒸留酒 すなわち 白酒があります。つまり、蒸留酒でありますので、アルコール度数が高いのであります。因みに、50度以上のものが多く、60度 や 65度というものも 少なくない とされております。なお、このときは アルコール度数が 60度と言われました。しかも、初めて 飲む人にとりましては 癖があり、飲みにくいとされているのであります。序で乍ら、中国人は、乾杯、乾杯と言って、その白酒を 何杯も 飲んでいました。













































































市場

市場



















哈爾濱 動物園

哈爾濱 動物園の地図














上記の 助教授(当時の名称・現在では、准教授と言われますね)が、何か 話していました。すなわち、見せ物(女 変 男 そして 男 変 女など)にしているので、人権のことであるかと思われました。すなわち、中国共産党の支配下で 人権のない国でありますからね。因みに、この話を 家政婦に伝えましたら、驚いていました。


解剖








哈爾濱(黒竜江省)

哈爾濱(黒竜江省)
ときに、去る 9年前の11月23日(日)の「アロマ・テラピー」のブログの上段に、
「(前略)昭和60年夏(菜食を始める前のことです)、母校の先輩に勧められて、中国医学研究会で、教授と共に、哈爾濱(黒竜江省)、瀋陽、そして、北京の医科大学に表敬訪問したことがあります。教授の荷物持ちでしたが、その際、飛行機の予約が取れなくて、列車で移動したことがありました。中国では水が悪いので、沸かして飲みますが、列車には ジャスミン茶のポット(魔法瓶)が備えられていました。日本には、某・飲料メーカーによって、ウーロン茶が輸入されました。しかし乍ら、中国で、ウーロン茶を飲んでいる光景は見ず、中国人は、普通に、ジャスミン茶を飲んでいました。(後略)」と記させて頂きました。

哈爾濱(黒竜江省)から 瀋陽に向かう 列車

哈爾濱(黒竜江省)から 瀋陽に向かう 列車

哈爾濱(黒竜江省)から 瀋陽に向かう 列車

哈爾濱(黒竜江省)から 瀋陽に向かう 列車

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

列車からの景色

車内

哈爾濱(黒竜江省)から 瀋陽に向かう 途中の長春(かつての満洲国の首都)

列車内の食堂車

列車内の食堂車


瀋陽
ところで、前述の 去る 7年前の3月24日(木)の「中国の話」のブログの上段に、
「(前略) この 瀋陽で聞いたことで 御座います。当時の中国では、ビニール(英語:vinyl)袋を落としても 落とし物として届けてくれる とのことでした。なお、この 瀋陽に 因ませて頂きますと、前述の 去る11月14日(土)の『満州のこと』のブログ の上段やや下に、
『(前略) 中国には、外国人旅行者が用いる外貨の 兌換券 と 中国人が使う人民元がありました。通貨レートは変動していました。外貨 兌換券は、昭和55年[1980年]4月1日から流通し、平成7年[1995年]1月1日に廃止されました。旅行当時は わからず、100元の外貨 兌換券で買い物をして、人民元で お 釣りをもらっていました。100元の外貨 兌換券を見て、商店の中国人が驚いていたのを覚えています。あとでわかったことですが、外貨 兌換券 と 人民元は 当時 約160対100で交換されていたとのことでした。 因みに、去る11月28日(金)の【ソフィア(東欧)】のブログ、そして、去る11月1日(土) の【東ベルリン(旧・東 独)】のブログ の中段やや上で、【exchange(両替)のブラック・マーケット(英語:black market:直訳は、闇取引)】のことを記させて頂きましたが、ここでもあるとのことでした。同じく 去る11月1日(土) の【東ベルリン(旧・東独[ドイツ])】のブログ の中段やや上に、
【(前略) 東欧を旅していて聞いたことは、西側の電化製品は性能が良く、購入するためには、西側の通貨が必要になるとのことでした。(後略)】と記させて頂きました。この場合の西側の通貨 そして 中国での外貨 兌換券 との違いはありますが、欲する目的は同じとのことでした。(後略)』と記させて頂きました。上記のように この 瀋陽の商店で 買い物をしたときの包装紙の写真を、下に添付させて頂きます。包装紙には 沈阳と書かれてありますが、 瀋陽のことです。

瀋陽( 沈阳)の商店の包装紙
(後略)」と記させて頂きました。なお、上記の文化大革命により、誠に遺憾なことに、漢字が 簡略化されているのであります。
また、昨日 すなわち 9月18日(月)の「満洲事変」のブログを記させて頂きました。因みに、瀋陽(沈阳)は 旧満州であります。
序で乍ら、去る 9年前の10月11日(土)の「海外のこと」のブログに、北京空港に 立ち寄ったことを記させて頂きました。因みに、中国共産党が 支配していますので、サービスという概念がないとのことでありました。それで、北京空港の売店でも サービスという感じではなくて、購入しても 包装してくれませんでした。

宿泊所の部屋にて

宿泊所の部屋にて

宿泊所の部屋にて
さて、去る 8年前の11月14日(土)の「満州のこと」のブログの上段に、
「(前略)瀋陽で 一行が 宿泊した 中流のホテルでは、通路に 南京大虐殺の展示が なされていました。因みに、これは、御承知のように 明らかに 虚構であります。(後略)」と記させて頂きました。


中国医科大学

中国医科大学

中国医科大学

中国医科大学



































予約すべき ホテルが ないという説明で、一行の滞在先となった 旅社(宿泊所)。因みに、本来 外国人は「飯店」 や 「賓館」などにしか泊まれず、「旅社」は 中国国内観光客向けの宿となっている とのことであります。なお、次の滞在地である 北京では、以下に 示しますが、「京倫飯店」でありました


















毛沢東の像
ときに、前述の 去る 8年前の11月14日(土)の「満州のこと」のブログの上段に、
「(前略)御承知のように、前記の文化大革命後 毛沢東の死後、その妻である江青を含む四人組が、文化大革命を主導した として 特別法廷で判決を受けました。前述の男子によりますと、毛沢東につくか、その反対勢力につくかで、どこの家でも 家族が真っ二つになったとのことでした。つまり、政治的なことで 家族が二つになったとのことでした。彼によりますと、毛沢東は悪いことを 10割の内 3割位したが、それより少しばかり 多い位 いいことをしたとのことであり、これが彼の 毛沢東の評価でした。すなわち、毛沢東の功罪のことです。因みに、学年が一番下だった為であるか、往きの飛行機の機内では 哈爾濱医科大学の教授の鞄持ちということで、同・教授の隣になりました。他の上級生たちは、学部生同志で座っていました。この教授は 日本語を話しましたので、前記の功罪という言葉を使いました。しかし乍ら、わからないとのことでしたので、漢字で筆記しました。中国では、コミュニケーション(英語:communication)をするときに、この筆記を用いて 会話を行う筆談を 度々利用しました。常に、メモ(英語:memo)帳を携帯していました。但し、中国人が 筆談を行っているところは、まず 見ませんでした。(後略)」と記させて頂きました。なお、「中国が ひた隠す毛沢東の真実」によりますと、毛沢東の殺人数は 合計で 7000万人になり 場合によっては1億人に達するとのことであります。すなわち、中国共産党の名のもとに でありますね。

毛沢東の像

毛沢東の像








瀋陽 故宮




















瀋陽 故宮





























次に、一杯 一杯で、部屋で休みました。因みに、食事には 行きませんでした。







中国医科大学附属Hp.(hospital[ホスピタル]の略です。日本語では、病院のことです。以下、Hp.と示させて頂きます)









なお、前述の 去る 8年前の11月14日(土)の「満州のこと」のブログ の中段やや上に、
「(前略)夜は、パーティー(英語:party)がありました。日本人一同で、御承知のように 中国人に人気のある『北国の春』を歌いました。主任教授から、真ん中で歌うように言われましたので、その通りに致しました。(後略)」と記させて頂きました。









曲技団による 曲芸

曲技団による 曲芸

曲技団による 曲芸

曲技団による 曲芸

曲技団による 曲芸

空港にて(誠に有り難いことに、 瀋陽から 北京へは、飛行機であります)
ところで、去る 6年前の4月7日(金)の「両親の食事、洗濯 そして 入浴・5」のブログの中段に、
「(前略)哈爾濱、瀋陽 そして 北京に行く程 薄味になっていくと感じました。御承知のように、哈爾濱は 田舎であり、一方 北京は 都会です。日本も 中国も、田舎 と 都会で 味付けの傾向は 共通していると、この表敬訪問の際に 思いました。(後略)」と記させて頂きました。因みに、このことを 家政婦に話しました。

主任教授の希望で、北京では 一流のホテルに泊まることになりました。因みに、前述致しました 名誉教授(当時は、助教授[当時の名称・現在では、准教授と言われますね])から、二学年上の女性リーダーは 問題があるのではないかと言われました。すなわち、その女性リーダーは スピーチを 途中で 投げ出してしまったからであります。なお、何か言いたいことがあるのではないかと尋ねられました。しかし乍ら、一番 学年が下の当方からは 意見することは 妥当でないと思われ、何も言うことが 適いませんでした。ところが、帰国後に その女性リーダーから 逆に 同じ ワンダー・フォーゲル部の先輩に チクられてしまうのであります。序で乍ら、去る 10年前の1月21日(水)の「ボランティア・高尾山登山・その2」のブログの中段やや上に、
「(前略)去る 昨年の10月28日(火)の『スイス(海外のこと)』のブログの下段に、
『学部一回生のとき、同期生(男性)に勧められて、体育会系ではワンダー・フォーゲル(独語:Wandervogel)(渡り鳥の意味です)部に入部致しました。』と お伝え申し上げました。
このワンダー・フォーゲル部の入部理由は、同級生(男性)に誘われたということと併せて、同じパーティー(英語:party)で、同じ釜の飯を食べ、競技では無いので、体育会系では御座いますが、競争が無いからで御座います。因みに、一学年下のワンダー・フォーゲル部男子後輩は、当初、茶道部に入るつもりで、ワンダー・フォーゲル部と茶道部を兼部している女子先輩から、新入部員勧誘のときに、ワンダー・フォーゲル部に回されて入部させられたとのことで御座いました。(後略)」と記させて頂きました。なお、そのワンダー・フォーゲル部であります




正面は 北京大学医学部の学部生



































なお、 前回 すなわち 9月21日(土)の「母親の遺品の寄付・前編」のブログの上段に、
「(前略)今回 当市の社会福祉協議会だよりに、福祉バザーのことが掲載されていました。 因みに、このバザーの収益は 福祉活動への財源として 活用させてもらうとのことでした。それで、主に 母親の衣料品を このバザーの収集場所に持って行くことにしました。すなわち、段ボールで 48箱分 以上になりました。それで、経費を負担して 引越センターを利用しようと思いました。ところが、誠に有り難いことに、事前に話しましたら 取りに来てくれることになりました。但し、下の画像のように、衣類、新品、夏物 そして 着物などのように 段ボールの上に タグを 貼って貰いたいとの旨でした。(後略)」と記させて頂きました。
また、去る9月21日(土)の「母親の遺品の寄付・後編(中国・表敬訪問)」のブログの上段に、
「(前略)下の画像のTシャツは、上記のように 中国の北京大学にも 表敬訪問したときに 万里の長城に行き、その観光地の前で 購入した製品です。

観光地の前の売り場

中国の万里の長城の前で 購入した Tシャツ

中国の万里の長城の前で 購入した Tシャツ
(後略)」と記させて頂きました。すなわち、両親が 介護の お世話になっていましたので、介護に還元させてもらう目的で 上記のように 中国の万里の長城の前で 購入した Tシャツも 福祉バザーに寄付しました。








頤和園の仏香閣

頤和園の仏香閣

頤和園の仏香閣



























頤和園の長廊

頤和園

頤和園


次に、去る6月4日(日)の「天安門事件」のブログを記させて頂きました。

天安門広場(100万人が収容出来るとされております)

天安門広場

天安門広場



日本でしたら、地下鉄

日本でしたら、地下鉄












さて、前述の 去る 8年前の11月14日(土)の「満州のこと」のブログ の中段やや上に、
「(前略)この瀋陽の後に参ります北京大学では、日本語を話す学生とは会いませんでした。皆 英語でした。なお、その北京では、ホテルでしか タクシーを利用することは出来ませんでした。すなわち、道路を流している タクシーは、手を挙げても 止まってくれないのであります。序で乍ら、教授たちに 一人で 外出するように 急かされて、一人で ホテルから 故宮迄 1時間以上 歩きました。しかし乍ら、教授たちとの集合時間に間に合わなくなりましたので、帰りは タクシーを使おうと思いました。ところが、上記のように、タクシーは 手を挙げても 止まってくれないのであります。それで、誠に有り難いことに、走って 何とか 集合時間に間に合いました。(後略)」と記させて頂きました。因みに、 一人で 故宮に行くことにしました。なお、北京の市内地図を見ますと 数cm位の距離で 近くにあると思われた公園が、何と 遥か 遠くで 目視出来ないのであります。序で乍ら、その広さに 驚きました。

北京 故宮


毛沢東





北京 故宮



北京 故宮 平面図








北海公園


故宮 博物館








天壇公園








さて、以下は、北京の絵葉書であります。因みに、まずは 北京近郊の明の十三陵であります。

長陵の稜恩殿

6龍3鳳凰の冠

長陵の全景

金の冠

神功聖徳の碑楼

6龍3鳳凰の冠

石碑楼

参道の石キリン

長陵の霊星門

参道の石獅子

長陵の稜恩門

参道の石像

長陵の明楼

長陵の殿

定陵の地下宮殿

望柱

長陵の亀龍碑

銀玉石花の金かんざし

献陵の全景

参道の石馬

地宮中殿

神道武臣

参道の全景

金の酒器

明の十三陵

頂簪(かんざし)

景陵の全景

参道の勲臣
次は、故宮博物院であります。

故宮博物院

养心殿藻井

太和殿宝座

太和殿宝座之局部

养心殿

象馱宝瓶

储秀官东間

寝官中的仕女画

太极殿内景

水晶觥

养心殿寝官

翠竹盆景

储秀官西間

盆景

天球儀 乾隆年間

金佛塔 乾隆年間

喜次官灯

龙凤喜床

高宗純皇帝

皇帝之宝

孝恭仁皇后

皇后朝冠

乾隆的甲冑

皇后朝褂

乾清宮

双龙耳嵌珠金杯 乾隆年間

光緖大婚图
ときに、前述の 去る 8年前の11月14日(土)の「満州のこと」のブログの上段に、
「(前略)学年が一番下だった為であるか、往きの飛行機の機内では 哈爾濱医科大学の教授の鞄持ちということで、同・教授の隣になりました。(後略)」と記させて頂きました。因みに、この教授から、印鑑を作るように 勧められました。それで、両親の分を含めて ¥10,000円を支払いました。なお、帰りのときに 誠に有り難いことに、前述致しました 名誉教授(当時は、助教授[当時の名称・現在では、准教授と言われますね])から 渡されました。序で乍ら、少額の お釣りも渡されましたが、人民元でありましたし 帰りの空港内でありましたので 却って 困ってしまいました。因みに、以前 家政婦から タイに旅行したときに 残ったバーツ(タイの通貨)を使い切る為に 空港で 買い物しなければならなかったと訴えていました。ところが、それすらも 出来ませんでした。

父親の印鑑

母親の印鑑

当方の印鑑
ところで、家政婦に 修行であり 苦行であったと伝えましたら、誠に有り難いことに、納得して 頷いて 同意してくれました。







(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)