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丁度 一週間前 すなわち 去る11月1日(土)の「東ベルリン(旧・東独)」のブログで、「機会がありまして、宜敷ければ、チェコ・スロバキア(御承知のように、現在はチェコとスロバキアに分かれています。)の首都であるプラハのことを記させて頂きます。」と お伝え申し上げましたので、今回、その続きを記させて頂きます。因みに、当時は 東欧という区分でありましたが、令和7年 現在では 御承知のように、チェコ も スロバキアも 中央欧州という区分でありますね。(^O^)
東ベルリンから、夜行列車で、東独内を通って、チェコ・スロバキアに行こうと、チェコ・スロバキアの滞在ビザ(英語:visa)(他の東欧の国々と同様に、チェコ・スロバキア大使館に行って、発給されましたが、当時、数千円という結構な額でした。)を取得していました。去る10月28日(火)の「スイス(海外のこと)」のブログで掲載しました 滞在ビザ(英語:visa)を再掲致します。

再掲・チェコ・スロバキアの滞在ビザ(英語:visa)と出入国印
昭和62年(1987年)(菜食を始める前のことです)8月10日【月】の朝、プラハ駅に到着しました。
プラハ駅で 日本人旅行者と 一緒になりました。結局、日本人が少なく、一泊二日で、この日本人に 一人にしか会いませんでした。筑波大学の学生の方でした。海外旅行中は、その日に会った 同性の日本人と 共に 二人で行動することがよくありました。
この日本人が、自宅に どうしても 電話したいというので、共に 電話機を探しましたが、公衆電話は見当たらなく、結局 半日 探して、夕方に漸く、店内の固定電話から連絡致し、日本円で約3,000円位 支払っていました。そこで、カンパ(露語のкомпания[kompaniya、カンパニア])しました。
また、同じくハプニング[happening]と致しましては、この1987年という年は、プラハの街全体が 世界遺産に 指定された年(旅行前は知りませんでした)であり、宿の需要が 一杯とのことであり、宿泊施設が ありませんでした。西側諸国のホテルのような宿泊施設が 充実している訳では無く、日本で云えば民宿のような、普段自宅として用いている建物の一部屋を借りるような形式の宿があるということで御座いました。
メジャーな某・ガイドブックによりますと、宿泊の予約をするのは日本人位で、欧州では 宿の予約は必要なく、ユース・ホステルの場合は、午前中の到着した方がいいと書かれてある程度で御座いましたが、ここは例外であると思いました。
午前中に到着しても宿がありませんでした。やはり 夕方迄 掛かって、漸く、前述の普段自宅として用いている 建物の一部屋を借りるような形式の宿で、しかも、二人相部屋ということで、宿泊施設を確保しました。大きなベッドが一つあり、シャワーがあり、誠に有り難いことに、清潔そうな部屋でした。
因みに、欧州の西側諸国では、見掛けで、ホテルの部屋の格を決めるということなので、トレーナーとGパンのような恰好ですと、エコノミー(英語:economy)(日本語:経済的)な部屋にしてくれます。
ときに、御承知のことであらせられますように、歴史的には、1968年に起こった、チェコ・スロバキアの変革運動であるプラハの春(チェコ語:Pražské jaro[プラジュスケー・ヤロ])が思い出されます。
プラハは、ヴルタヴァ川(チェコ語:Vltava)を境にして、新市街と旧市街に分かれています。御承知のように、「わが祖国(チェコ語: Má Vlast )(スメタナ作曲)」・交響詩第2曲:ヴルタヴァという原題になっています。こちらの方がよく耳にされると思いますが、「モルダウ」(独語: Die Moldau、英語: The Moldau)の名でも知られています。
新市街 と 旧市街の間を、このヴルタヴァ川の上に掛かる カレル橋(チェコ語: Karlův most)が 繋いでいます。御承知のように、この橋は有名で、橋の両側に彫刻が並んでいます。日本では博物館に運ぶであろう様な彫刻が、欧州では、街中に散在している光景をよく目にしました。この後、訪れるローマが、特にそうでしたね。
日没の頃、ヴルタヴァ川越しに新市街から見た旧市街とカレル橋の写真を掲載します。

日没前のプラハ旧市街

日没後のプラハ旧市街

日没後のプラハ旧市街

プラハ旧市街

プラハ旧市街

カレル橋
一般的には、「変身」という著書で有名な、実存主義的見地から注目された フランツ・カフカ(Franz Kafka)という作家の生家に行きました。旧市街にあります。去る10月7日(火)の「ボランティア・地域医療」のブログで言及しました 地域医療研究会の母校の学生に、このフランツ・カフカの話しをしましたら、知っていました。
旧市街の写真を掲載します。一枚目の写真の手に持っているのは、木製のコースター(英語:coaster)(コップ等の食器の下に敷く、小さなマットのことです)です。お土産にしました。

プラハ旧市街

プラハ旧市街
プラハ城の衛兵交代式の写真を掲載します。

プラハ城・衛兵交代式

プラハ城・衛兵交代式
某・教会では、コンサートが開かれていました。中学校のときの音楽通論の教科書でしか見たことが無く、知る限り、日本で演奏されているという情報を聞いたことが無い、バロック期の英国の作曲家であるヘンリー・パーセル(英語:Henry Purcell)の曲が演奏されていましたので、驚きました。但し、この後、帰国して調べましたら、日本でも、ヘンリー・パーセルの曲が演奏されていました。
声楽も含めたコンサートの様子と某・教会の写真を掲載します。

コンサートの様子

某・教会

某・教会

内部

内部
欧州(ヨーロッパ)で、ガラス製品といいますと、御承知のように、ここボヘミア・ガラス(Bohemian glass)(チェコ[ボヘミア]の 伝統産業のひとつ。一つだけ お土産で持ち帰りました)、ベネチア・ガラス(日本円で 千円位のものを お土産で持ち帰りました)、欧州王室愛用のバカラ (仏蘭西語:Baccarat)、そして、北欧(スウェーデン)(コスタボダ[Kosta Boda]を日本に送りました)が 思い浮かびます。
さて、レストランで メニューを見ますと ビール 一杯(日本円に換算して)約20円とのことでした。去る11月1日(土)の「東ベルリン(旧・東独)」のブログで、東ベルリンのビールのことを言及致しましたが、前述のもう一人の日本人によりますと、プラハのビールは 美味 しいとのことでした。プラハのビールは有名なのですね。ビールの原料となるホップの生産地でもあります。現在、プラハを首都に持つチェコは国民一人あたりの年間ビール消費量が世界一だと言われているそうです。
去る10月24日(金) の「健やかに生活をして頂くために」のブログ、そして、前述の 去る11月1日(土)の「東ベルリン(旧・東独)」のブログで お伝え申し上げましたように、医者になってから、ポケベル(今はほとんど用いられていませんね。)を持ち、夜中でも呼び出されましたので、お酒を止めました。
ところで、この昭和62年(1987年)以前に、プラハのことを紹介している本は 「プラハの憂鬱―素顔の東ヨーロッパ (昭和54年[1979年])」を除いて ほとんどありませんでした。因みに、プラハのことが紹介されるようになったのは、プラハの街全体が世界遺産に指定された、この昭和62年(1987年)以降であるか と思われます。なお、外交官研修中の著者による 昭和61年(1986年)から 昭和62年(1987年)8月 迄 、英国での外務省の研修時期に出会った チェコ人との遭遇が メインストーリーである 上記の本と同じ題名の「プラハの憂鬱」が 後日 すなわち 平成27年(2015年)3月31日に出版されます。序で乍ら、その昭和62年(1987年)という年は 前述いたしましたように 奇しくも 丁度 プラハを訪れた年でありました。
プラハに 一泊して、翌日 すなわち 8月11日【火】、夜行列車で、もう一人の日本人と共に、ハンガリー方面に向かいました。この もう一人の日本人は、夜間、途中のブラチスラヴァ(スロバキア語:Bratislava)(オーストリアの国境迄近いです)で 乗り換えて、ウィーン(標準独語:Wien、日本語表記では 主に「ウィーン」が用いられますが、標準独語での Wの発音は [v] であり、「ヴィーン」の表記が近いです)に行くとのことでした。当方は ハンガリーの首都であるブダペスト(ハンガリー語: Budapest)に向かいました。因みに、チェコ・スロバキアの出国係官が 車内に来て、パス ポート と チェコ・スロバキアの滞在ビザ(英語:visa)を見せました。それで、出国印が押されました。また、ハンガリーに入りますと 入国係官が車内に来て、やはり パス ポート と ハンガリーの滞在ビザ(英語:visa)を見せました。そうして、入国印が押されました。なお、機会がありまして、宜敷ければ、続きを記させて頂きます。唯々感謝。(^-^)
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)