このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。
リンクを貼
らせて頂いております。紫色のブログタイトルをクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)
さて、今年は ゆっくり 桜の花を見ることは
適
いませんでした。東京では、桜の見頃は 昨日
迄
だったようです。昨日は、日中 気温が20℃を超えて お花見日和だった とのことであります。ニュース(英語:news)によりますと、昨日は 花吹雪だったとのことですから、
次
に 雨が降ると 桜の花は お
終
いですね。天気予報によりますと、今日は 花散らしの風雨の天気になるようです。本日は、全国的に 雨とのことなので、言及させて頂きましても宜敷
いか と思われ 記させて頂きました。因
みに、去る 昨年の4月6日(月)の「桜の花(玉川上水)」のブログ の上段に、
「(前略)
一昨日
は、花散らしの雨が降る前の、桜の花を見る最後の機会でした。クリーニング店に行きましたら、店員から、風(南風)が強くて、桜は散ってしまうから、と否定的なニュアンス(仏
語:nuance)(言葉などの微妙な意味合い。また、言外に表された話し手の意図のこと)の言葉がありました。そこで、このブログを御覧になられておられる方々
も充分に御承知のことであらせられることを話しました。すなわち、桜の花の生命は短くて、散り際が潔くていいのですね。その潔い 散り際が日本人の心に合うのでしょうね。日本の美、散り際の美学ですね。その最も美しい時が短期間しかなくて、いつでも見られるものではないから 稀少価値があるのですね。(後略)」と記させて頂きました。なお、「同期の桜」という歌がありますね。先日 郵便局員との話で、会話の流れから 東京に 桜の開花を告げるのが 靖国神社の桜であることを申しました。その靖国神社の
永代神楽祭
のことを記させて頂きました 去る1月31日(日)の「
永代神楽祭
・2」のブログ の下段に、
「(前略)遊就館の拝観順路の最後に、記入するノート(英語:note)が置かれています。それで、遊就館を拝観したときには 必ず書いてきます。今回は、『回天(前述の 人間爆弾【桜花】と同様に、特攻部隊です)を見ました。殉死者は、89名とのことでした。そもそも、問題があったのは 米国 そして 露
の方
であります。初めから、ルーズベルト(英語: Franklin Delano Roosevelt)は 開戦するつもりであった とされています。勿論
、このことは、コミンテルン(露
語:Коминтерн)(大正8年[1919年]から昭和18年[1943年]迄
存在した、共産主義政党による国際組織のことであります。別名は、第三インター・ナショナルです)の謀略もあります。大東亜戦争開戦当時、ルーズベルトの周囲には コミンテルンのエージェント(英語:agent)だらけでした。ありがとうございました。』と書かせて頂きました。このことは、去る 昨年の12月4日(金)の『占守島
』のブログ 、去る11月14日(土)の『満州のこと』のブログ 、去る 昨年の11月11日(水)の『今上天皇陛下の お言葉』のブログ 、去る 昨年の10月5日(月)の『硫黄島
』のブログ 、去る 昨年の8月15日(土)の『終戦の日』のブログ 、去る 昨年の8月9日(日)の『長崎原爆の日』のブログ そして 去る 昨年の4月5日(日)の『歴史の業
』のブログ などにも記させて頂きました。機会がありまして宜敷
ければ、更
に この詳細を記させて頂きます。(後略)」と記させて頂きました。それで、誠に有り難いことに 「いいね」を頂きましたので、今回 その続きを記させて頂きます。すなわち、これ
迄
、「東京裁判史観」というのは、それ以外の歴史観を認めない強い力を持っていました。機会がありまして 宜敷
ければ、この東京裁判の詳細を記させて頂きます。因みに、学部生のときに、「東京裁判」というビデオ・テープ(英語:video tape)を借りて このメディア(英語:media)からの勉強も致しました。このビデオ・テープは、ダビング(英語:dubbing)して 繰り返し見ました。なお、約20年前のことですが、去る 一昨年
の10月8日(水)の「親の受診に付き添っていること・1」 また 去る 一昨年
の11月9日(日)の「親の受診に付き添っていること ・2」のブログ のそれぞれ共に中段やや上 そして 去る2月23日(月)の「天皇陛下行幸の君恩に浴
して」のブログ の中段やや下に記させて頂きました某・ボランティアのサークル(英語:circle)の方に、このビデオ・テープ そして これを再生する ビデオ・デッキ(英語:video deck)を2台 寄付致しました。
しかし
乍
ら、近年になりまして、
漸
く その「東京裁判史観」が崩れ始めて来ました。そうなって来た原因は、何と言っても ソ連が解体されたことが大きいです。これによって、米国 や 英国は、それ
迄
公にしなかった ソ連のスパイ(英語:spy)の暗号文書を公表するようになって来ました。
更
に、ロシア(英語:Russia)からも ソ連時代の秘密文書が出て来るようになりました。これらは、極めて重要な文書です。これによって、戦前、前述のコミンテルンが 何をやっていたのかが明らかとなり、日本は 彼らによって 戦争に引き
摺
りこまれたことが証明されているのです。
例
えば、昭和2年に内閣を組織した田中義一という人が、天皇陛下に世界征服計画を上奏した と言われました。
所謂
田中上奏文のことです。しかし、最近になって、これは コミンテルンが書いたものだということが、モスクワ(英語:Moscow)から出て来た資料によって明らかにされたのです。この田中上奏文というのは、東京裁判でも採用されなかった
出鱈目
な文書です。ところが、
支那
で 初めて印刷されて 世界に流布されたときには、世界各国に大きな影響を与えました。不幸なことに、前述のルーズベルトも 若い頃に それを読んで 信じ込んでしまい、「日本は、世界征服の計画を持っている。これは、
潰
さなくてはならない。」と思うようになったのです。
因
みに、前述の 去る11月11日(水)の「今上天皇陛下の お言葉」のブログの上段に、
「(前略)支那
は差別用語ではないとされています。仮に、差別用語であると致しますと、英語のチャイナ(China)も 差別用語になると思われます。 (後略)」と記させて頂きました。
コミンテルンは、支那
を使い、米国を使い、日本を戦争に駆り立てようとしていました。ソ連が大東亜戦争後半に発信した暗号文を解読した ヴェノナ・ファイル(英語: Venona file)を資料とする 前述の米国の公式文書によりますと、ルーズベルトが大統領になった頃は、米国の民主党政権の周囲には、300名以上のコミンテルンのエージェントがいたのです。
因
みに、ルーズベルトは 4期 大統領に当選しました。米国国民は もう戦争は絶対に嫌だと思い、そのムード(英語:mood)が 米国には
蔓延
していました。
一方
、共和党の党首には ハミルトン・フィッシュ(英語:Hamilton Fish)という 強力な対抗馬がいました。これに対抗する
為
に、ルーズベルトは、3期目の大統領選挙のときに 「米国は絶対に戦争しない」という公約を掲げて 当選しました。民主党政権は、昭和8年(1933年)から 昭和28年(1953年)
迄
20年間も続きました。
大東亜大戦が始まる約2年前の昭和14年(1939年)、英国は 独
に宣戦布告します。そして、
独
が優勢に運び、英国宰相であるチャーチル(英語:Winston Leonard Spencer-Churchill)から 米国に「助けてくれ」との要請があります。しかし、ルーズベルトは、公約したので
独
との争いに参戦することが出来ません。そこで、「日独伊三国同盟」を結んでいた日本を挑発して 太平洋で 日本から 手を出させれば、米国の世論に逆らわずに 参戦出来ると思ったのです。以下は、この日米開戦につきまして 記させて頂きます。
日米開戦にも コミンテルンの謀略があった
昭和16年(1941年)、東条英機に首班の大命降下が下ったのは、米国との戦争を回避する
為
でした。米国と和平を締結する
為
には 支那
からの撤兵も決断せざるをえず、そうなった場合 陸軍の抵抗を抑えることが出来るのは 二・二六事件以降 身の回りがきれいな東条英機しかいない ということになったのです。特に 昭和天皇陛下は、東条英機を 最後
迄
信頼されました。
因
みに、父親によりますと 戦後 東条英機の子息と同級生になったとのことでありました。この子息は、いじめられていたとのことでした。
ですから、大命降下が下った東条英機は、本当に一生懸命 和平の道を探ったのです。米国との交渉にあたって、最終的にA案 そしてB案が作成されました。A案で だめならば B案でもいいということなのですが、そのB案は 石油さえ売ってくれるならば 支那
から引き揚げる という 涙ぐましい
迄
の譲歩をしているのです。ハル(英語:Cordell Hull)国務長官と交渉を重ねていた野村駐米大使などは、これで戦争を避けられそうだ と楽観するようになりました。ところが、このような和平直前の段階になって いきなり それ
迄
の日米交渉の脈絡と関係なく、ハル・ノートという文書が 日本に突き付けられました。これは 日露戦争以降に築いた東
亜細亜
における 日本の権益を
全
て放棄せよ というものであり、日本が 決して
呑
むことの出来ない 受け入れられない内容でした。それ
迄
米国との戦争は絶対に避けるべきであると言っていた 日本の指導者たちも、これは宣戦布告であると認め、開戦に同意したのです。実は、このハル・ノートという文書は、ハル国務長官が書いたものではありませんでした。ハリー・ホワイト(英語:Harry Dexter White)という 財務省の一役人が書いたものです。このハリー・ホワイトという人物が、前述のコミンテルンのスパイだったのです。彼は、何が何でも日本と米国を戦争に引き込めというスターリン(
露
語:Иосиф Виссарионович Сталин)の命令を受け、日本が絶対に
呑
めない条件を書いた訳です。そして、この文書を ハル国務長官ではなく、直接 ルーズベルトに見せました。前述のように 戦争をしたくてたまらなかったルーズベルトは、この案を見て採用し ハル国務長官に渡すように言ったのです。このとき、この案を見たハル国務長官は、こんな文書を渡したら 日本と戦争になる と言った とのことであります。だから、この両者とも、戦争になることは分かっていたのですね。ですから、ハル国務長官は、この文書をハル・ノートと言われることを非常に嫌っていたと
云
われています。このように、ハル・ノートは、コミンテルンの謀略によって作られた文書だったのです。日本は、その謀略に載せられた訳です。
因
みに、前述の 共和党の党首であったハミルトン・フィッシュには、「ルーズベルトの開戦責任」 そして 「日米・開戦の悲劇」という著書があります。日米開戦当時、このハミルトン・フィッシュでさえも、ハル・ノートの存在を知らされていなかった とのことであります。だから、真珠湾攻撃をされたときには、腹が立ったとのことでした。しかし、かなり
後
になって この文書を読み、この内容では 日本と戦争になるのは当たり前のことであると思った とのことであります。
なお、米国の首脳は、日本との開戦を目論むという 誠に愚かなことをしたものでありますね。結局、極東における ソ連の影響力を増やした訳でありますからね。御承知のことであらせられますように、日本という防御がなくなった訳であり、後になって、米国は 極東における ソ連の影響力を危惧するようになります。
コミンテルンは、大陸でも
執拗
な謀略を致しました。このことに関しましては、前述の 去る11月11日(水)の「今上天皇陛下の お言葉」のブログの上段に記させて頂きました。
ときに、去る2月8日(月)の「駅伝大会」のブログの中段やや下に、
「(前略)昨日、ご承知のように 北朝鮮が 長距離弾道ミサイルを発射しました。因
みに、去る12月4日(金)の『占守島
』のブログ の中段に、
『(前略)去る11月11日(水)の【今上天皇陛下の お言葉】のブログ の中段以降に、
【(前略)戦前の日本が 途中から おかしくなって来たのは、何と言ってもソ連の陰謀が原因であり、それによって 支那
がおかしくなり、さらに 米国もおかしくなって、日本は その挟
み撃ちにあった、これが正しい歴史事実です。この事実を述べたのが 東条英機の宣誓供述書であり、マッカーサー(米語:Douglas MacArthur)の証言でもありました。ここで、補足致します。(中略)
解任され 米国に呼び戻されたマッカーサーは、上院の軍事外交合同委員会というところで 証言しました。この委員会は、米国の軍事外交では 最高の権威とされるところです。ここで 彼は、縷々
日本についての状況を述べ、その最後のところで、“Their purpose,therefore,in going to war was largely dictated by security.” 〖従って、彼ら(日本人)が戦争に入ったのは、主として自衛の為
であった。〗と、つまり、安全保障の為
であったと、こう 決定的な証言をしたのです。(中略)
東京裁判は 日本側の主張など一切無視しましたが、結局 マッカーサーは、東条英機が言ったことを 本当であったと自ら認めたのです。ですから、これからの日本の歴史教育は、〖東京裁判史観〗から〖東条英機・マッカーサー史観〗に移らなければならない、と思われるわけです。すなわち、某・宗教団体の総裁でも 大東亜戦争のことを 〖日本の侵略〗と 自虐的に話している方
がいますが、歴史事実が明らかになって来た今日、この二人
の歴史観を是非とも伝えなければならないと思われるのです。(後略)】と記させて頂きました。なお、去る(
一昨年
の)10月5日(日)の【ボランティア・高尾山登山】のブログと 去る(昨年の)1月21日(水)の【ボランティア・高尾山登山・その2】のブログ で、
【(前略)18年間、月二回、日曜日に、・・・ボランティアを、このトップの方々
二人
に委託されて、行
って参りました。そのボランティアで、過日、子供達と父兄を連れて・・・(後略)】と お伝え申し上げました ボランティアの男性スタッフ(英語:staff)も、【自虐的】とのことでした。(後略)』と記させて頂きました。この東条英機の遺書によりますと、『第三次世界大戦は避けることが出来ない。第三次世界大戦において、主
なる立場に立つものは 米国 および ソ連である。第三次世界大戦においては、極東がその戦場となる。』との旨
でした。東条英機の死後 朝鮮戦争が起こっていますから、今後 極東が戦場になって 第三次世界大戦が起きるかどうかは分かりませんが、旧・ソ連と同じ赤軍である北朝鮮は 挑発して来ていますね。(後略)」と記させて頂きました。
ところで、前述の 去る 昨年の12月4日(金)の「占守島
」のブログの中段やや下に 、
「(前略)(前述の)去る11月11日(水)の『今上天皇陛下の お言葉』のブログ そして (前述の)去る10月5日(月)の『硫黄島
』のブログ のそれぞれ下段に、
『(前略)去る8月15日(土)の【終戦の日】のブログ の中段に、
【(前略)去る8月9日(日)の〖長崎原爆の日〗のブログ の中段に、
〖(前略)去る(昨年の)3月10日(火)の〔煮物〕のブログ の冒頭にも、
〔(前略)本日は昭和20年3月10日の東京大空襲の日で御座
いますので、黙禱
させて頂きました。御承知のように、丁度70年目の年になります。因
みに、当時、母親は14歳で、東京・市ヶ谷
の大本営の近くに住んでいました。記憶を風化させないように、と思っております。(後略)〕と記させて頂きました。日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことは お伝えさせて頂きますことが使命であると思わせて頂いております。それで、語り継
がせて頂かなければならないと感じております。(後略)〗と記させて頂きました。御承知のように、本日(8月15日)は 丁度70年目の終戦の日で御座
います。(後略)】と記させて頂きました。
最後になりますが、この夏からずっと硫黄島
のことを記させて頂こうと思って参りました。硫黄島
のことは膨大
で、しかも、深刻なことで御座
いますので、何から書き始めていいのかわかりませんでした。記し始めてから気が付いたことで御座
いますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。このことは、此
れ迄
、すなわち、この一年間、このブログを記させて頂いて参りまして思っていたことで御座
いますが、今回は、この 書かされているという気持ちが更に強かったです。
去る8月22日に、誠に有り難いことに、読者の方
から、前述の 去る8月15日(土)の【終戦の日】のブログ のコメント1に、
【(前略)〖おかあさん〗と言いながら断崖絶壁を飛び込んだというくだりでは、涙ぐみました(ノ_・。)(後略)】とのコメントを頂きました。そこで、直
ぐに 頂いたコメントの回答をさせて頂き、コメント2に、
【(前略)〖おかあさん〗と言い乍
ら断崖絶壁を飛び込まれたということを記させて頂き乍
ら、当方も涙が零
れました。(後略)】と記させて頂きました。ブログを記させて頂き乍
ら、感極
まって涙が零
れることはよくあることであり、今回もそうでした。重ねて何卒
宜敷
く お願い申し上げます。(後略)』と記させて頂きました。今年は 終戦して 丁度70年目の年であり、日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことは お伝えさせて頂かなければならないと思われますので 記させて頂きました。師走に入り、この占守島
のことを 今年中に綴
らせて頂くことが出来まして 本当によかったです。去る(一昨年の)12月1日(月)の『心療内科学会』のブログ の下段に、
『(前略)一昨日
、すなわち、11月29日(土)夜は懇親会がありましたが、去る(
一昨年
の)11月23日(日)の【アロマ・テラピー】のブログ でも お伝え申し上げましたように、菜食で お酒を飲まないということもあり、周囲に気を使わせることのないように遠慮致し、このブログを記しておりました。お伝え申し上げましたように、高校の同期会のときには同期によるミニ講演会があるとのことでしたが、挨拶の委託もないときには、基本的に遠慮致しております。(後略)』と記させて頂きました。昨日も、同様に忘年会がありましたが、事前に通知を致し このブログを記しておりました。去る(昨年の)1月30日(金)の『永代神楽祭
』のブログ の中段に、
『(前略)同・判事は、他国の裁判官達が、夜、パーティに出席しているのに、一人で部屋に籠
って、もの書きをして、日本の子供達に、簡単なわかり易い言葉で申しますと、うしろめたい思いを背負って、荒
んでいくのは見逃せないと言って、この裁
き(東京裁判)は無効であると語ってくれました。誠に有り難いことで御座
います。(後略)』と記させて頂きました。誠に有り難いことに、少しでも、この 極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)の印度
代表のラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal)判事のような働きが出来ればよいが と思わせて頂いております。(後略)」と記させて頂きました。
なお、このブログ記事の冒頭で 言及させて頂きました 今年最後の桜の花を 昨夜は 見ずに、このブログ記事の仕上げを記しておりました。
ところで、記し始めてから気が付いたことで御座
いますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。今回も、ブログを記させて頂き乍
ら、感極
まって 何度も 涙が零
れました。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)