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さて、去る 7年前の1月21日(水)の「ボランティア・高尾山登山・その2」のブログ の中段やや上に、
「(前略)去る 昨年の10月28日(火)の『スイス(海外のこと)』のブログ の下段に、
『学部一回生のとき、同期生(男性)に勧められて、体育会系ではワンダー・フォーゲル(独語:Wandervogel)(渡り鳥の意味です)部に入部致しました。』と お伝え申し上げました。
このワンダー・フォーゲル部の入部理由は、同級生(男性)に誘われたということと併せて、同じパーティー(英語:party)で、同じ釜の飯を食べ、競技では無いので、体育会系では御座いますが、競争が無いからで御座います。因みに、一学年下のワンダー・フォーゲル部男子後輩は、当初、茶道部に入るつもりで、ワンダー・フォーゲル部と茶道部を兼部している女子先輩から、新入部員勧誘のときに、ワンダー・フォーゲル部に回されて入部させられたとのことで御座いました。(後略)」と記させて頂きました。 因 みに、その 一学年下のワンダー・フォーゲル部男子後輩「本多直記君」のことであります。すなわち、彼とは、哲学の話になると、自他も認めることでありますが、意気投合しました。また、彼は、当家から 近い幼稚園を卒園しました。但し、彼から 電話が掛かってくると 1時間以上になるのでありますが、彼は 早口なのであります。
なお、彼は、三学年(母校の医学部の数え方。因みに、一年生 や 一回生では ありませんね)の夏(約35年前 すなわち 昭和62年7月4日前後)のときに、同期生 数人と共に 千葉の海に行きました。序で乍ら、このとき、海は 波が高く、「遊泳注意」の看板が立っていたそうであります。それで、その 一学年下のワンダー・フォーゲル部男子後輩は、同期生に 海に入っては いけないね と話しているとのことなのであります。ところが、彼は、この海に入り 溺死するのでありました。 因 みに、ワンダー・フォーゲル部の國本健太男子先輩から 間接的に聞かされたことでありますが、検死の結果によりますと 身體の内臓が ボロボロだったとのことでありました。なお、葬儀に出席して、レンタカーを借りて 当方以外に 森正陽男子先輩(当時、6期生)、金子晴生男子同期生(当時、4期生)、武田賢治男子同期生(当時、4期生) そして 松井洋法男子後輩(当時、1期生)の四人の男子を乗せて 国分寺から新宿迄 送りました。序で乍ら、この1期生の男子後輩が 助手席に座って、当方の運転中に ハンドル捌きの講義を始めるものでありますから とんでもないことであると思われました。なお、その葬儀では、そのワンダー・フォーゲル部の男子先輩(当時、6期生)が、遺族の母親から 依頼されて、弔辞を読みました。 因 みに、もう一人の男子先輩(当時、6期生)によりますと、葬儀のときに 「親に先立つは不孝である。」と話していました。序で乍ら、当方が、代表して 香奠に 筆で 記入しました。 因 みに、その一学年下のワンダー・フォーゲル部男子後輩は、同期生 数人の身代わりとして 亡くなったような気が致します。なお、彼の為の追悼文集が発行されました。序で乍ら、彼は 夏の山行で 大雪山に行きましたし、マッター ホルンに登りたいと話していました。但し、この大雪山系縦走の夏の山行のときは、某・先輩の発熱があり、層雲峡に エスケープをしてしまいました。因 みに、去る 6年前の9月18日(日)の「北海道旅行・6( 層雲峡)」のブログの上段に、
「(前略)この続きと致しまして、前述の 去る 一昨年の10月28日(火)の『スイス(海外のこと)』のブログ の下段に、『(前略)そして、上級生になり、一学年下のワンダー・フォーゲル部後輩で、マッターホルン( 独語: Matterhorn)(標高4,478m)に登りたいと言っていた菜食の男子学部生がいました。3回生のときに、この後輩は亡くなりました。そこで、追悼山行のような気持ちで、マッターホルンに立ち寄りました。(後略)』と記させて頂きました。すなわち、前述の一学年下のワンダー・フォーゲル部・男子後輩というのは、同一人物です。この男子後輩が、生前 大雪山にも登りたいと話していました。それで、上記のマッターホルンと同様に、誠に有り難いことに、大雪山に立ち寄ることが出来ました。追悼山行のような気持ちでした。(後略)」と記させて頂きました。なお、弔辞に、「こういう言葉があります。人は 人から 思い出されなくなった時に 本当に死ぬんだ」と読み上げられました。序で乍ら、上記の 「國本健太」という男子先輩には、特に 心より感謝申し上げます。
因 みに、上記の追悼文集によりますと、彼の カラオケの お箱は 必殺「柳ヶ瀬ブルース」だったとのことでありました。ところが、「海その愛」を歌っている 加山雄三の曲も、よく 歌っていました。なお、当方が 書いた 追悼文集の最後の言葉(結び)であります。すなわち、
彼は 当方と同じ 菜食でした。今 思うと、彼は非常に上品であり、かつ、繊細なやさしさの持主でありました。俗世におくのは ないような聖人であったように思えてならないのであります。最後に、本多直記君の御冥福を 心より祈り、結びとしたいと思います。
なお、去る12月14日(水)の「本の進呈・続報105・前編(シンクロニシティ)」のブログなどに記させて頂きましたように、去る 一昨年の2月12日(水)の「笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤ 小乗から 大乗へ・前編」のブログ、去る 一昨年の2月12日(水)の「笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤小乗から 大乗へ・中編」のブログ そして 去る 一昨年の2月12日(水)の「笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤小乗から大乗へ・後編」のブログの内容を記した 成書を進呈したいと思います。因 みに、彼の許に この内容が届きますように、心より お祈り申し上げます。

表題は、彼の行きたかった マッターホルン(独語: Matter Horn)になっています
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)