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さて、去る昨年の10月5日(日)の「ボランティア・高尾山登山」のブログ から、アメーバ・ブログを開設させて頂きまして、誠に有り難いことに、一周年を迎えることが出来ました。これも一重に当ブログをぉ読み下さいます皆々様のぉ蔭であると、心より感謝・御礼申し上げます。因みに、去る3月24日(火)の「茄子の違い」のブログ の冒頭に、
「(前略)去る10月9日(木)の『笑いと菜食療法ー菜食に導かれた過程ー小乗から大乗へ』のブログ の上段に、B.S.T.(bedside teaching)(臨床実習)のことを記させて頂きました。このB.S.T.(臨床実習)のときに、母校の某・内科学教室の主任教授から、医者は『月・月・火・水・木・金・金』と言われました。歌の題名でもありますね。この『月・月・火・水・木・金・金』の思いでブログを記させて頂きます。(後略)」と記させて頂きました。今後とも何卒宜敷くぉ願い申し上げます。
ときに、去る4月10日(金)の「豆腐の和えもの」のブログ の上段に、大東亜戦争の激戦地でありましたパラオ共和国(英語: Republic of Palau)のペリリュー島(英語: Peliryu)、北マリアナ諸島(英語: Northern Mariana Islands)にあるサイパン島(英語:Saipan)、そして、ソロモン諸島(英語:Solomon Islands)最大の島であるガダルカナル島(英語: Guadalcanal)のことを記させて頂きました。今回は硫黄島のことを記させて頂きます。硫黄島は東京都小笠原村に属し、東京都区部からは、南方におよそ1,200 kmに位置します。サイパン島から日本への距離のほぼ中間地点に位置します。大東亜戦争末期、日本の「絶対国防圏」であるマリアナ諸島のサイパン島が玉砕しましたので、ここから直接B-29(長距離戦略爆撃機)が日本本土を空襲出来るようになりました。更に、米軍が硫黄島の飛行場を手に入れることが出来れば、B-29に積む燃料が約半分で済むことになり、その分の重量の爆弾を積むことが出来ることになります。硫黄島は、戦略上大切な中継地点であった訳であります。
硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官が赴任して来て、当初、小笠原諸島最大の島である父島に司令部を置く予定でしたが、主戦場になる硫黄島を司令部にしました。しかし乍ら、制空権と制海権を持つ米軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることが出来ないことは明白なことでありました。
硫黄島は活火山の火山島であり、地熱が高く、島の至る所で噴気が有り、噴出する火山ガス(二酸化硫黄[化学式:SO2]等)により特有の臭いが立ち込めています。これが硫黄島の名の由来であります。島内の最高峰は、摺鉢山(標高169 m)であります。硫黄島は瓢箪を半分にしたような形と言われます。硫黄島の画像を下に掲載させて頂きます。画像をクリック(click)(もしくはタップ)して頂きますと、拡大致します。

硫黄島の航空写真

硫黄島

摺鉢山のある硫黄島

地図上での、硫黄島の位置
同・最高指揮官は、洞窟陣地を構築して この硫黄島全体を要塞化し、地下から強大な米軍を迎え撃とうと考えたのであります。因みに、ベトナム戦争のゲリラ戦で、この洞窟陣地を模倣したトーチカ(露語:долговременная огневая точка)が米軍を苦しめました。
話を戻しますが、その洞窟陣地を構築するにしても、スコップ(蘭語:schop)のような道具が満足にある訳ではありません。なお、西日本では小型の道具をスコップ、大型の道具はシャベル(英語:shovel)と呼ぶ方が多いと言われます。また、逆に東日本では大型の道具をスコップ、小型の道具をシャベルと呼ぶ方が多いと言われています。ここでは、大型の道具であるスコップを指しているようです。
硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬(鶴嘴のこと)や円匙(シャベルのこと)などの手工具で掘ることが出来たとのことですが、真面な道具が行き渡っている訳でも無く、爪を剥がし乍ら、しかも、掘れば 前述の火山ガスが噴出し、そして、漸くの思いで洞窟を堀り進んだと伺っています。そのうえ、米軍の艦砲射撃 や 爆撃などに耐えられるように、硬い部分の岩盤を掘って 洞窟陣地を構築した とのことであります。そのようにして、洞窟陣地を構築したとのことであります。
やがて、硫黄島の沖一面に、サイパン島から航海して来た圧倒的な数の米軍の軍艦が現われます。それで、大音響と共に硫黄島に向けて艦砲射撃が行われ、丸 3日間も続いたとのことです。因みに、島の形を変える程であった とのことであります。なお、米軍は、この艦砲射撃で日本軍はほとんど全滅しただろうと思ったようです。しかし、前述致しましたように、日本軍は洞窟陣地を構築していました。日本軍は洞窟陣地である地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機を伺っていたのであります。油断して砂浜を上陸して来た米軍に、洞窟陣地から日本軍が反撃します。最終的には、約2万人の日本兵が硫黄島で戦い、生き残ったのは1000名余りとのことです。正確には、日本軍守備兵力20,933名のうち約96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となったとのことです。捕虜となった人数は昭和20年3月末迄に200名、終戦までに合計わせて1,023名であったそうです。一方、米軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けたとのことです。硫黄島の戦いは、大東亜戦争後期の島嶼防衛戦において、米軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、米国が第二次世界大戦で最も人的損害を被った戦闘の一つとなったとのことです。
硫黄島を陥落させるために米軍は5日間を予定していましたが、日本軍の奮闘で 昭和20年(1945年)2月19日から 3月26日迄 すなわち 約36日間も掛かりました。
日本軍守備隊の最高指揮官は、自決もさせず、万歳突撃も禁止しました。同・最高指揮官は米軍上陸部隊に出来るだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていました。この日本本土への進攻を遅らせ、米軍が本土上陸することを先延ばしにさせてくれたぉ蔭で、日本本土にいる女性、そして、子供への、米軍からの殺戮が遅れました。誠に有り難く、大きなことであると存じます。この働きが無ければ、この年の8月15日の終戦を向かえる迄に、もっと大勢の同胞である日本人が米軍によって殺戮されていたかもしれません。因みに、上記のように 日本軍守備兵力である 20,129名が 戦死していますが、この お蔭がなければ、この百倍の 日本本土に居る女性 そして 子供たちが 殺戮されていたかもしれません。
前述の摺鉢山も艦砲射撃によって攻略され、数人の米軍兵士によって山頂に星条旗が掲揚されました。そして、米軍は、同・最高指揮官のいる司令部に向かって侵攻して行きました。総攻撃の時機を窺っていた同・最高指揮官は約400名の将兵と共に、自ら指揮を取り米国陸軍航空軍野営地に対し夜襲を敢行し、満53歳で戦死したとのことです。この最後の攻撃は同・最高指揮官が戦闘前から戒めていた決死の万歳突撃ではなく必至の夜襲であり、また攻撃を受けた米国陸軍航空軍の野営地には整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く、当地は混乱に陥ったとのことです。現に、米海兵隊戦史には、「日本軍の出撃は、万歳突撃ではなく、最大の混乱と破壊とを起こさせることを狙った優秀な計画であった。」と記されているとのことです。この硫黄島の戦いが、連合国軍最高司令官総司令部(G.H.Q.)による日本の占領政策を変えたとされています。日本人を怒らせるとどうするかわからないと思わせたとのことです。勇敢に戦って下さった英霊の方々のぉ蔭で御座います。
同・最高指揮官が戦死して、組織的な戦闘が終了した後も、残存された日本軍兵士は洞窟陣地内に立て籠もっていました。米軍はこの洞窟陣地に火炎放射器を浴びせて洞窟陣地である地下坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザー(英語:bulldozer)で入口を塞いで削岩機で上部に穴を開け、そこからガソリン入りの海水を流し込んで点火したりしたとのことです。幸いなことであるかと存じ上げますが、生き残った日本軍兵士によりますと、ここ迄するのかと思ったとのことであります。これが戦争なのだと感じたとのことであります。
戦後、米軍が使用していた硫黄島の飛行場の地下には、多くの日本軍兵士の御遺骨が埋まっています。硫黄島が日本に返還された後も、飛行場として使用されて来ました。御遺骨の上に滑走路があるとは、誠に畏れ多いことで御座います。誠に有り難いことに、この滑走路が移動されることになりました。
平成6年(1994年)に、天皇・皇后両陛下が硫黄島行幸啓なされ慰霊なされました。因みに、天皇・皇后両陛下・行幸啓のことにつきましては、去る2月23日(月)の「天皇陛下行幸の君恩に浴して」のブログ にも記させて頂きました。
また、平成25年(2013年)4月14日、現・総理大臣が、歴代総理で初めて硫黄島に訪問しました。誠に有り難いことに、滑走路を剥がして、大東亜戦争での日本軍兵士の御遺骨を収集する由です。沖縄の米軍・普天間飛行場の移設も解決するといいですね。普天間飛行場は市街地に位置しますからね。市街地であることに因ませて頂きますと、東京都にあった米軍・立川基地は返還されましたが、出身高校がこの基地の近くの某・都立高校であり、防音の為に窓が二重になっていました。但し、現在、この母校の建物は建て替えられています。なお、摺鉢山のある硫黄島は瓢箪を半分にしたような形と言われます、と前述させて頂きましたが、以前、「ひょっこりひょうたん島」という番組が御座いましたね。その母校の合唱祭の最後に、必ずこの「ひょっこりひょうたん島」の歌を全員で合唱致しました。
慰霊の為に硫黄島に訪れようとしても、特別の日を除いて、硫黄島基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されています。そこで、毎朝、硫黄島の日本軍兵士の方々の為に、思いを籠めさせて頂いて硫黄島が位置する南方に向かって、水を捧げさせて頂くことを決意致しました。洞窟陣地内は、前述のように地熱の影響で高温であり、地下水は無く、雨水以外にほとんど水が確保出来なかったそうであります。飲み水にさえも不自由したと存じ上げます。現在の日本は水に恵まれていて、誠に有り難いです。母親に水を捧げさせて頂くことを話しましたら、誠に有り難いことに、自分も行うと話してくれました。この拙いブログ記事をぉ読み頂いて、そう感じて下さる日本人の方々がおられましたら、誠に有り難く存じ上げます。
日本固有の領土内である硫黄島で日本軍守備隊として戦って下さった兵士の方々のことをもっと早くから知っていればと、誠に申し分けない気持ちで一杯で御座います。
戦後、日本軍兵士が悪者にされました。私たちは悪者と思い込まされていました。日本の国を護ろうとして下さった英霊の方々に対して誠に畏れ多いことで御座います。去る1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ に、靖国神社に祀られています英霊の方々のことを記させて頂きました。
ところで、去る8月15日(土)の「終戦の日」のブログ の中段に、
「(前略)去る8月9日(日)の『長崎原爆の日』のブログ の中段に、
『(前略)去る3月10日(火)の【煮物】のブログ の冒頭にも、
【(前略)本日は昭和20年3月10日の東京大空襲の日で御座いますので、黙禱させて頂きました。御承知のように、丁度70年目の年になります。因みに、当時、母親は14歳で、東京・市ヶ谷の大本営の近くに住んでいました。記憶を風化させないように、と思っております。(後略)】と記させて頂きました。日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂きますことが使命であると思わせて頂いております。それで、語り継がせて頂かなければならないと感じております。(後略)』と記させて頂きました。御承知のように、本日は丁度70年目の終戦の日で御座います。(後略)」と記させて頂きました。
最後になりますが、この夏からずっと硫黄島のことを記させて頂こうと思って参りました。硫黄島のことは膨大で、しかも、深刻なことで御座いますので、何から書き始めていいのかわかりませんでした。記し始めてから気が付いたことで御座いますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。このことは、此れ迄、すなわち、この一年間、このブログを記させて頂いて参りまして思っていたことで御座いますが、今回は、この書かされているという気持ちが更に強かったです。
去る8月22日に、誠に有り難いことに、読者の方から、前述の、去る8月15日(土)の「終戦の日」のブログ のコメント1に、
「(前略)『おかあさん』と言いながら断崖絶壁を飛び込んだというくだりでは、涙ぐみました(ノ_・。)(後略)」とのコメントを頂きました。そこで、直ぐに 頂いたコメントの回答をさせて頂き、コメント2に、
「(前略)『おかあさん』と言い乍ら断崖絶壁を飛び込まれたということを記させて頂き乍ら、当方も涙が零れました。(後略)」と記させて頂きました。ブログを記させて頂き乍ら、感極まって涙が零れることはよくあることであり、今回もそうでした。重ねて何卒宜敷くぉ願い申し上げます。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)