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さて、去る 一昨年の7月19日(木)の「もののあわれ(配達員・鰻の蒲焼・157[父親の食事])」のブログの上段に、
「(前略)某・国立大学教授(男性)によりますと、明治時代の文学は 一言『喪失』を表現していると定義することが出来る とのことでした。一方、某・私立大学教授(男性)によりますと、日本には 西洋にない 素晴らしい文学がある とのことでした。つまり、西洋の文学が とても 行き着くことが出来ない、聖人の領域の文学が 日本には ある との旨でした。すなわち、日本の明治時代の自然主義文学 や 自然主義文学の定義者である ゾラ(仏語: Émile François Zola)の文学ではなくて、吉田 兼好の随筆『徒然草』、鴨 長明の『方丈記』 そして 俳人・松尾 芭蕉の紀行 および 俳諧 『おくのほそ道』とのことであります。 因みに、この『徒然草』、『方丈記』 そして 軍記物語『平家物語』など、仏教的無常観を抜きにして 日本の中世文学を語ることは出来ない とされています。この『無常観』は、中世以来 長い間 培ってきた 日本人の美意識の特徴の一つと言って よいであろう とのことです。更に、日本人は 春夏秋冬 すなわち 季節の移り変わり つまり 無常を 『もののあわれ』としています。誠に、日本人の凄いところの一つであると思われます。なお、これらのことは、10数年以上前、去る 4年前の12月17日(水)の『万年筆』のブログの冒頭で言及致しました友人に話しました。(後略)」と記させて頂きました。
ならびに、去る 4年前の4月4日(月)の「不思議な一致(「清明」の日)」のブログの上段に、
「(前略)本日は、二十四節気の第5 である『清明』の日ですね。御承知のように、古代の日本の固有思想は 『清き 明き心(清明心)』です。心情の純粋性による 他者との融和を表しています。(後略)」と記させて頂きました。
および、去る2月12日(水)の「笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤ 小乗から 大乗へ・前編」のブログの中段やや下に、新教連(新教育者連盟)(文部科学大臣認可財団法人)支部長(当時)の言葉を引用させて頂きました。この新教連(新教育者連盟)の平成9年度の学会で発表した論文の冒頭に、
「国学者であり、医師の本居宣長は 35歳頃より 30数年間 心血を注いで 『古事記伝』を残しました(1898年完成)。なお、清明心が 日本人の心であり、神器の鏡が 日本人の心の表象であると信じております。」と記させて頂きました。故・渡部昇一氏によりますと、本居宣長の お蔭で、現代において 古事記を読むことが出来る との旨でした。
また、本居宣長は、「源氏物語」の 上記の「もののあわれ」にも触れています。なお、この「源氏物語」に因 ませて頂きます。すなわち、上記の某・私立大学教授(男性)によりますと、平安時代の文学としては 仮名文学である 女流作家による 「源氏物語」 や 「枕草子」が残ったとのことでした。この某・私立大学教授(男性)によりますと、当時 男性は 漢文を勉強していたとのことでした。これを見ていた女性は 馬鹿ねと思ったとのことでした。しかし乍ら、調べましたら、「源氏物語」の作者である紫式部は、漢文も勉強しています。
当方は、基本的に 国学を 最も尊重しています。
ときに、某・新興宗教団体では、学者のことを低く評価しています。すなわち、あなたは 学者だ と言うときに、相手のことを低く考えているのです。因 みに、この宗教団体は、学者に対して 脅威を感じているので こう評価するのであると思われます。つまり、ライバルと思っているのでありましょう。なお、ショーペンハウアー(独語: Arthur Schopenhauer)(独の哲学者)によりますと、その主著である「意志と表象としての世界」の「付録と補遺」に収められている三篇の中の「思索(字義通りに訳すと、『自ら 考えること』となります)」の5に 以下のように書かれてあります。すなわち、
「(前略)絶えず読書を続けて行けば、(中略)あげくの果てに それを つめこみ過ぎた精神から洞察力を すべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態に おとし入れるからである。このような事態は 多くの学者を例にとれば 明らかであり、彼ら学者が常識や正しい判断、事にあたっての分別などの点で学のない多くの人に劣るのも そのためである。(送り仮名も含めまして、原文通り)(後略)」と記されています。序で乍ら、このショーペンハウアーは、ゲッティンゲン大学に入学し 医学部に籍を置きます。因 みに、去る 4年前の8月19日(金)の「ハイデルベルク(独)」のブログなどに 独に訪れたことを記させて頂きましたが、このゲッティンゲンにも 訪れました。なお、このゲッティンゲンに、ガチョウ娘リーゼルの像があります。ゲッティンゲン大学で 学位を取得した学生は この像とキスをするという風習があるそうです。
話を戻しますが、上記の本居宣長と 同じ江戸時代に、近江聖人と云われる 中江藤樹(近江国[滋賀県]出身の江戸時代初期の陽明学者)が出生しています。なお、上記の「学者」に因 ませて頂きます。すなわち、中江藤樹の考えによりますと、
「『学者』とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は 学才であって、生まれつき その才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら 学者ではない。学識があるだけでは ただの人である。無学の人でも 得を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」とのことであります。
更 に、去る 5年前の5月18日(月)の「一大事とは」のブログの上段に、
「(前略)この三島由紀夫や 去る2月14日(土)の『絵本の影響』のブログの中段やや上に記させて頂きました 吉田松陰などのように、誠に有り難いことに、国の為に死に場所を得ることが出来れば、という思いが御座います。(後略)」と記させて頂きました。この吉田松陰によりますと、
「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とのことであります。
ところで、前述致しましたように、中江藤樹は 陽明学者です。因 みに、御承知のように 儒教の一派には 朱子学がありますが、陽明学も 儒教の一派であり、孟子の性善説の系譜に連なるとされています。なお、去る 昨年の12月24日(火)の「創り変える力(大和民族)」のブログの中段やや下に、
「(前略)『仏教公伝』以前に、中国から 儒教も伝わります。このとき、日本人の凄いところは 中国語を『白文』で読むのではなく、『読み下し文』で 日本風に読んだ ということであります。このようなことが出来る民族は、世界中で 我々 大和民族しか 存在しません。これによりまして、日本は、誠に有り難いことに 中国文化圏に組み込まれずに済んだのであります。誠に 素晴らしい 日本人の先人たちに 感謝したい気持ちであります。そして、江戸時代に 起こった『古学』は、日本人によって 創り変えられた日本型儒教とされているのです。(後略)」と記させて頂きました。
次 に、日本で 心学と申しますと、石田 梅岩(日本の江戸時代中期の思想家)が創始した 石門心学が挙げられますが、陽明学の異称でもあります。なお、上記の 去る 昨年の12月24日(火)の「創り変える力(大和民族)」のブログの中段やや下に、
「(前略)さて、『国学』の存在は 最も 忘れられません。 因みに、『国学』は 老荘思想的 と言う人も居ます。なお、機会がありまして 宜敷ければ、『国学』のことを 力を入れて 記させて頂きます。(後略)」と記させて頂きました。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)