満洲事変(令和6年)

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 さて、 去る 9年前の11月11日(水)の「今上天皇陛下の お言葉」のブログの上段に、

「(前略)去る10月5日(日)の『ボランティア・高尾山登山』のブログ と 去る1月21日(水)の『ボランティア・高尾山登山・その2』のブログで、

『(前略)18年間、月二回、日曜日に、・・・ボランティアを、このトップの方々かたがた二人に委託されて、おこなって参りました。そのボランティアで、過日、子供達と父兄を連れて・・・(後略)』と お伝え申し上げましたボランティアで、毎年、天皇誕生日に 皇居参賀に行きました。天皇陛下の お言葉がありまして、毎回 筆記致しておりました。今年の新年に当たり、天皇陛下の御感想 が発表されました。それによりますと、『(前略)本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。(後略)』とのことで御座ございました。これは、大東亜戦争だけでなく、昭和6年(1931年)の満州事変から 昭和20年(1945年)ポツダム宣言 受諾による 大東亜戦争 終結に至るまでの約15年間弱(実際には、14年足らず)にわたる紛争状態 と 戦争を 総称した呼称として、『十五年戦争』とわれますが、この『十五年戦争』の総括を考えるべきだという意味であると思われます。そこで、天皇陛下の大御心おおみごころに従って、考えてみます。学者の中には、満州事変以降の戦争を『十五年戦争』として 一纏ひとまとめにして、満州事変から 支那シナ事変(日華事変)を連続して考えているかたが見えますが、たしてそうでありましょうか。少なくとも、満州事変 と 支那シナ事変(日華事変)は別に考えるべきであります。扱う内容が膨大でありますので、今回は、この考えのみ記させて頂きます。ちなみに、支那シナは差別用語ではないとされています。仮に、差別用語であると致しますと、英語のチャイナ(China)も 差別用語になると思われます。

 

 すなわち、

 昭和12年(1937年)7月7日夜半に起こった盧溝橋ろこうきょう事件が 支那しな事変の引き金になったとされています。北京の南を流れる盧溝河に架かる橋が、盧溝橋ろこうきょうです。当時、盧溝橋ろこうきょうの近くで 現地に駐屯していた日本軍は、夜間演習を行っていました。その盧溝橋ろこうきょう事件は、蒋介石しょうかいせき軍(支那シナ・国民党軍)に潜入していた 毛沢東もうたくとうの手下の部隊が起こした謀略でした。蒋介石しょうかいせき軍 と 日本を戦争させるため、前述のように 夜間演習を行っていた日本軍に銃弾を撃ち込んだのです。日本軍は、不意に暗闇から銃撃を受けました。日本軍駐屯地の近くには 蒋介石しょうかいせき軍も駐屯していたのですが、銃撃を受けた日本軍は、その銃撃が 蒋介石しょうかいせき軍によるものと思いこみ、遂に日本軍 と 蒋介石しょうかいせき軍の武力衝突 すなわち 盧溝橋ろこうきょう事件が起こったのです。

 当時、毛沢東もうたくとうにとって 一番の敵は、蒋介石しょうかいせきでした。蒋介石しょうかいせきによって、毛沢東もうたくとうが率いる共産軍は ほとんど息の根を止められ、延安という山奥に追い込まれていたのです。コミンテルン(ロシア語:Коминтерн)(大正8年[1919年]から昭和18年[1943年]まで存在した、共産主義政党による国際組織のことであります。別名は、第三インター・ナショナルです)は、この状況を打開するため蒋介石しょうかいせき軍 と 日本軍を戦争させ、蒋介石しょうかいせき軍の勢力をいでしまおう、こういう謀略を企てたのです。

 それでも、この盧溝橋ろこうきょう事件は、何とか話し合いで収拾することが出来ました。ところが、その3週間くらい 後に、いきなり 北京近郊の通州という所で 日本人2百人以上が虐殺されるという凄惨な事件が起こりました。しかし、それでも、この事変は 大きく拡大することなく、一旦は終息しました。日本は、兎に角とにかく 事変が拡大することを必死に食い止めたのです。しかしながら、そのような努力もむなしく、今度は 同・8月13日に、上海で事変が始まりました。

 上海事変が起こったとき、蒋介石しょうかいせきは 日本とは戦争をしたくないと考えていました。彼が望んでいたのは 支那シナの統一であり、それを妨害していたのは 毛沢東もうたくとうだったのです。日本と戦争すれば、支那しなの統一どころではなくなってしまうわけです。

 ところが、張治中という将軍は 蒋介石しょうかいせきの命令を聞かず、勝手に5万の兵隊を動かして 日本と戦争を始めました。実は、この張治中という人物も 既に共産主義者になっていて、毛沢東もうたくとうコミンテルンから 日本を戦争に巻き込めという指令を受けていたのです。そして、この事件を契機として、日本は広大な支那シナ大陸を舞台に、昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで、『日中戦争』と呼ばれる 終わることの無い戦争の泥沼へと引きずり込まれて行ったのです。

 

 このように、盧溝橋ろこうきょう事件から始まった支那シナ事変というのは、コミンテルンの謀略によって起こされたものでした。この間、日本は常に受け身でした。事件を起こされ、それを収拾し、というようなことが繰り返されたのです。 去る1月30日(金)の『永代神楽祭えいたいかぐらさい』のブログ の中段に、極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)のことを記させて頂きました。東条英機は この東京裁判の宣誓供述書で 『日本は 常に受け身であった』と述べていますが、これは その間の歴史事実をしているのです。このように、大陸において 日本が戦争に巻き込まれていったのも、その背後には コミンテルンの謀略があったわけです。すなわち、大陸においても コミンテルンの執拗しつような工作が行われていました。

 そう致しますと、戦前の日本が 途中から おかしくなって来たのは、何と言ってもソ連の陰謀が原因であり、それによって 支那しながおかしくなり、さらに 米国もおかしくなって、日本は そのはさみ撃ちにあった、これが正しい歴史事実です。この事実を述べたのが 東条英機の宣誓供述書であり、マッカーサー(米語:Douglas MacArthur)の証言でもありました。ここで、補足致します。

 すなわち、東京裁判が終わってから 1年半くらい 後、朝鮮戦争が起こりました。マッカーサーは 韓国に攻め込んだ金日成を満州国境まで 追い払ったのですが、裏では スターリン(ロシア語:Иосиф Виссарионович Сталин) と 毛沢東もうたくとうが、金日成に惜しみない援助を続けています。それで、マッカーサーは、トルーマン(米語: Harry S. Truman)大統領に満州爆撃 と 東支那シナ海に面する港湾の封鎖を要請したのです。それに対して トルーマンは、満州を爆撃すれば ソ連との間で 第三次世界大戦が起こると懸念し、マッカーサーを解任してしまいました。

 解任され 米国に呼び戻されたマッカーサーは、上院の軍事外交合同委員会というところで 証言しました。この委員会は、米国の軍事外交では 最高の権威とされるところです。ここで 彼は、縷々るる 日本についての状況を述べ、その最後のところで、“Their purpose,therefore,in going to war was largely dictated by security.” 『従って、彼ら(日本人)が戦争に入ったのは、主として自衛のためであった。』と、つまり、安全保障のためであったと、こう 決定的な証言をしたのです。

 何故なぜ マッカーサーは このような証言をしたかとえば、朝鮮戦争を経験し、スターリン や 毛沢東もうたくとう 共産主義者が操る戦争には、どうしても反撃しなければならないということが分かったからなのです。

 実は、彼が述べた この証言は、東条英機が 東京裁判の宣誓供述で述べた主旨と全く同じものであったとされています。東条英機の宣誓供述書というのは、今 ほとんど顧みられませんが、これは当時の日本の実情を一番知っていた立場の人が書いたものであり、一つひとつの嘘も書かれていない重要な文献です。何故なぜ 嘘がないかと言えば、これは法廷文書ですから、嘘があれば 悪意に満ちた検事たちによって、すぐにあばかれてしまうからです。

 東京裁判は 日本側の主張など一切無視しましたが、結局 マッカーサーは、東条英機が言ったことを 本当であったと自ら認めたのです。ですから、これからの日本の歴史教育は、『東京裁判史観』から『東条英機・マッカーサー史観』に移らなければならない、と思われるわけです。すなわち、某・宗教団体の総裁でも 大東亜戦争のことを 『日本の侵略』と 自虐的に話しているかたがいますが、歴史事実が明らかになって来た今日、この二人ふたりの歴史観を是非とも伝えなければならないと思われるのです。

 

 ときに、去る10月5日(月)の『硫黄島いおうとう 』のブログ の下段に、

『(前略)去る8月15日(土)の【終戦の日】のブログの中段に、

【(前略)去る8月9日(日)の〖長崎原爆の日〗のブログ の中段に、

〖(前略)去る3月10日(火)の〘煮物〙のブログの冒頭にも、

〘(前略)本日は昭和20年3月10日の東京大空襲の日で御座ございますので、黙禱もくとうさせて頂きました。御承知のように、丁度70年目の年になります。ちなみに、当時、母親は14歳で、東京・市ヶ谷いちがやの大本営の近くに住んでいました。記憶を風化させないように、と思っております。(後略)〙と記させて頂きました。日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂きますことが使命であると思わせて頂いております。それで、語りがせて頂かなければならないと感じております。(後略)〗と記させて頂きました。御承知のように、本日(8月15日)は 丁度70年目の終戦の日で御座ございます。(後略)】と記させて頂きました。

 最後になりますが、この夏からずっと硫黄島のことを記させて頂こうと思って参りました。硫黄島のことは膨大ぼうだいで、しかも、深刻なことで御座ございますので、何から書き始めていいのかわかりませんでした。記し始めてから気が付いたことで御座ございますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。このことは、まで、すなわち、この一年間、このブログを記させて頂いて参りまして思っていたことで御座ございますが、今回は、この書かされているという気持ちが さらに強かったです。

 

 去る8月22日に、誠に有り難いことに、読者のかたから、前述の 去る8月15日(土)の【終戦の日】のブログ のコメント1に、

【(前略)〖おかあさん〗と言いながら断崖絶壁を飛び込んだというくだりでは、涙ぐみました(ノ_・。)(後略)】とのコメントを頂きました。そこで、ぐに 頂いたコメントの回答をさせて頂き、コメント2に、

【(前略)〖おかあさん〗と言いながら断崖絶壁を飛び込まれたということを記させて頂きながら、当方も涙がこぼれました。(後略)】と記させて頂きました。ブログを記させて頂きながら、感極かんきわまって涙がこぼれることはよくあることであり、今回もそうでした。重ねて何卒なにとぞ宜敷よろしくぉ願い申し上げます。 (後略)』と記させて頂きました。今年は 終戦して 丁度70年目の年であり、日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことはぉ伝えさせて頂かなければならないと思われますので 記させて頂きました。ところが、記し始めてから気が付いたことで御座ございますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。今回も、ブログを記させて頂きながら、感極かんきわまって涙がこぼれました。(後略)』と記させて頂きました。(後略)」と記させて頂きました。

 そして、去る 昨年の9月18日(月)の「満洲事変」のブログの中段やや下に、

去る 7年前の4月7日(木)の『大東亜戦争の真実』のブログを記させて頂きました。

 

 ときに、『662人を日本に帰すため、ソ連兵の性的暴行にえた 未婚女性15人の苦しみ』の話があります。すなわち、大東亜戦争終結時に 自分たちを守ってくれるはずの関東軍は 撤退してしまい、多くの開拓団が 満州に孤立してしまいました。それで、日ソ中立条約を破って 侵攻してきた ソ連軍のほか、それまで 支配されていた 現地人も 一気に暴徒化し、敗戦国の弱体化した開拓団に襲いかかります。

 そこには 略奪・暴行・虐殺・強姦など、あらゆる無法が まかりとおりました。彼女たちの隣の村の開拓団は、この無法にえかね、集団自決で全滅しました。そして、黒川開拓団の中でも集団自決の声が高まりましたが、リーダーの一人ひとりが、『人の生命いのちは そんなに簡単なものじゃない』と主張して、思いとどまります。

 そして、リーダーたちは、たまたま団の中にいたロシア語の出来る人間を通じて、近くに進駐してきていたソ連軍に、保護を求める交渉をしました。すると、ソ連軍は、兵の暴行や現地人の襲撃から団を守り食糧や塩を提供する代わりに、若い女性を将校の『接待』役として差し出せという条件を付けてきたのです。

 つまり、挺身隊のような形で、決まった女性たちを交代で慰安婦として差し出せということです。それは、ソ連軍側から一方的に強制されての行為ではなかったのでありますが、必然的なものでありました。開拓団としての取引きでした。

 

 夫や子どものる女性には頼めないということで、結局、かぞえで18歳から21歳までの未婚の女性が15人選ばれました。『このままでは集団自決しかない。何とか全員が助かって帰国するために、団に身を預けてくれないか』と、必死の説得が行われます。『あなたたちには 団を救う力がある。将来には責任をもつ』とも言われたといいます。

 女性たちが『絶対いやです』と拒否するのは当然です。そんなことをするくらいなら、死んだほうがましと、拳銃をもって 飛び出した女性もいたそうです。

 結局、何百人もの命を守るためには断りきれず、当時21歳だったリーダー格の女性は、『日本に帰って お嫁に行けなかったら、お人形の店でもやって 一緒に暮らそう』そう言って、全員をなだめたと言います。

 連れて行かれたべニア板張りの『接待場』では、女性たちは 布団の上に並んで 横たわりました。彼女たちの言葉を借りれば、『はずかしめを受ける』あいだ お互いに 手を しっかりと握りあい、泣きながら 暴行にえたそうです。覚悟していたとはいえ、『助けて、お母さーん、お母さーん』と泣き叫ぶ女性もいました。

 暴行の事後処理として、彼女たちは 医務室に行き、性病や妊娠を防ぐために 薬品を管で体内に注いで洗浄を受けます。彼女たちより年下の女性が、泣きながら その冷たい薬液を注ぐ仕事を手伝ったという証言も残っています。

 こうして、何カ月もの過酷な試練にえた結果、黒川開拓団は暴徒の襲撃から守られたのです。ただ 15人のなかの4人は、性病や発疹チフスにかかり、帰国出来ないまま生命いのちを落としました。なお、集団自決をする開拓団が相次あいつなかで、総員662人の開拓団のうち 451人が生きて帰れたのは、まさに彼女たちの犠牲の おかげだったと言っていいとされています。

 90歳近い高齢になりながら、70年間も封印してきたつらい記憶を、よくぞ 語り継ぐ気持ちになってくれたと思われる とされています。

 

 ところで、去る 昨年の2月28日(月)の『リハビリテーション(父親)・172・中編・8』のブログの中段やや上に、

『(前略)戦前の国際連盟では、日本は 常任理事国でした。ところが、国際連盟には、国際連合のような拒否権はありませんでした。したがって、リットン報告書採択 そして 満州国不承認が、42対1、棄権1(シャム)で可決されたときに、日本は 国際連盟脱退を通告しました。ちなみに、これが、国際連盟でなくて 国際連合でしたら、拒否権を行使出来たことになります。(後略)』と記させて頂きました。

 なお、満州まんしゅう国は、まともな国として 歴史に残っていません。ちなみに、誠に遺憾なことに、溥儀ふぎを 皇帝として 立てたことも 歴史に残っていません。

 

 つぎに、昭和6年(1931年)9月18日に 満洲事変が始まりましたが、本日は その9月18日でありますね。

 なお、去る 8年前の11月14日(土)の『満州のこと』のブログの中段やや上に、

『(前略)去る1月30日(金)の【永代神楽祭えいたいかぐらさい】のブログの上段に、

【(前略)伯父は満州まんしゅうしばらた・・・(後略)】と記させて頂きました。伯父に導かれて、満州まんしゅうである ここ 瀋陽シンヨウに行くことになったのかもしれません。満州まんしゅうに来たことは 使命であると思われましたので、前述のように、【親から日本語を教えられたとのことでした。日本人からでなく、親からであります。しかも、日本に留学する意思があり、最初に 学校で 日本語を勉強したというわけでは ありません。なお、満州で 日本人が 中国人から言われている それ相当なことをしているのであれば、そのような民族の言語は、親が子供に教えないと思われました。】と記させて頂きました。(後略)』と記させて頂きました。

 

 さて、今回も、上記のように、その書かされているという気持ちが さらに強かったです。すなわち、記し始めてから気が付いたことで御座ございますが、自分が書いているとは思えませんでした。より大きな存在に書かされているような気持ちになりました。今回も、ブログを記させて頂きながら、感極かんきわまって 涙がこぼれました。(後略)」と記させて頂きました。

 ときに、昭和6年(1931年)9月18日に 満洲事変が始まりましたが、本日は その9月18日でありますね。(ちな)みに、満洲移民が開始された 経緯(いきさつ)には、広田弘毅総理が関わっています。すなわち、広田弘毅内閣が、満州国への大規模な日本人農民の移住計画である「二十カ年百万戸送出計画」を立案し、国策として確定させた とされております。そして、満州事変を立案・実行したのは 関東軍・作戦主任参謀の石原莞爾であります。

 

 (義務教育の方々かたがたに 美しい日本語を 正しい読みかたで 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名ふりがなを付けております)

 本日も、最後 まで  お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)

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