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さて、去る11月25日(土)の「三島由紀夫(憂国忌)(令和5年)」のブログ そして 去る 一昨年の11月25日(金)の「三島由紀夫(憂国忌)(令和4年)」のブログのそれぞれ上段に、
「(前略)去る 昨年の11月25日(木)の『三島由紀夫(憂国忌)(令和3年)』のブログの上段に、
『(前略)去る 一昨年の9月13日(金)の【一大事とは・続報】のブログ そして 去る 6年前の5月18日(月)の【一大事とは】のブログのそれぞれ上段などに、
【(前略)高校生のときに、去る3月18日(水)の〖親の受診に付き添っていること・10(市内の某・公立Hp.の循環器内科)〗のブログ そして 去る2月23日(月)の〖天皇陛下行幸の君恩に浴して〗のブログのそれぞれ共に中段やや下に記させて頂きました、母親から勧められた某・ボランティアのサークルの先輩から、昭和45年(1970年)11月25日の三島事件のことにつきまして、あのとき(同・事件から約7年経過していました)、自分は置いて行かれた思いがした との旨の内容を伺いました。この三島由紀夫 や 去る2月14日(土)の〖絵本の影響〗のブログの中段やや上に記させて頂きました 吉田松陰などのように、誠に有り難いことに、国の為に 死に場所を得ることが出来れば、という思いが御座います。
因みに、吉田松陰のことは、前述の某・ボランティアのサークルの別の先輩から、中学1年生のときに最初に知らされました。その後、調べましたら、吉田松陰が 30歳の時、高杉晋作に宛てた手紙に、〖死して不朽の見込みあらば いつでも 死ぬべし。生きて大業の見込みあらば いつでも 生くべし。〗と書かれていたとのことです。
三島由紀夫は、自決に先立つ 約一ヶ月前の昭和45年(1970年)10月、広島県江田島にある 海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れています。その折 偶々 展示されていた、全国から寄せられた 戦没者の遺書の中から 手に取った 一通の遺書を読み終えた 三島由紀夫は、声を出して泣いたといわれています。それは慶應義塾大学経済学部から海軍第13期飛行予備学生に志願し、昭和20年(1945年)5月、神雷部隊(人間爆弾〖桜花〗による特攻部隊)として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した 某・中尉(戦死後少佐に 二階級特進。23歳)の残した遺書でありました。三島由紀夫はこの遺書を読んで、〖凄い名文だ。命が掛かっているのだから 叶わない。俺は命を掛けて書いていない。〗と語ったと言われています。因みに、この遺書は、現在、靖國神社の遊就館に展示されています。
去る3月21日(土)の〖介護〗のブログ の上段、そして、去る10月18日(土)の〖心身医学会〗のブログの中段やや上に、
〖(前略)元・心理療法内科の学会の理事長に依頼されて、某・日本医療心理学院で、早稲田大学やお茶の水女子大学の心理の大学院生に心身医学の講義を行っていました・・・(後略)〗と記させて頂きました。この故・元・心理療法内科の学会の理事長(従軍の体験があるとのことでした)によりますと、平成13年(2001年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の飛行機の操縦者は、世界貿易センター(英語:World Trade Center, W.T.C.)ビルに激突したとき、エクスタシー(英語:ecstasy)を感じただろう とのことで御座いました。この同時多発テロ事件 と 大東亜戦争での特攻を 同一視(心理学用語)する方が見えますが、前者は 民間人を巻き込んで 標的にしたのに対し、後者は飽くまでも 米軍の航空母艦(設備)を標的にしたのであり、明らかに違っています。去る1月30日(金)の〖永代神楽祭〗のブログ の中段やや上に、
〖(前略)日本国民にとりまして、護るべきものがある場合の価値観が関わって参ります。(後略)〗以下のことを記させて頂きました。唯々感謝。(^-^)(後略)】と記させて頂きました。
ときに、去る 6年前の10月23日(金)の【レクイエム】のブログ の上段 そして 去る 6年前の10月5日(月)の【硫黄島】のブログ の下段などに、母校の某・都立高校のことを言及させて頂きました。因みに、昨年 映画【三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜】が公開されましたが、この映画に その母校の某・都立高校の同期生が コメンテーターとして 出演しています。なお、このことは、家政婦たちにも話しました。
ところで、本日は、三島由紀夫の命日 すなわち 憂国忌です。 因 みに、今年で 51回目の憂国忌が行われますね。(後略)』と記させて頂きました。
次に、本日は、三島由紀夫の命日 すなわち 憂国忌です。 因 みに、今年で 52回目の憂国忌が行われますね。なお、今回も、仕事を始める前に、ヘルパー(日本語:家政婦)の前で 一分間の 黙禱を させて頂きました。
ときに、去る 8年前の10月23日(金)の『レクイエム』のブログ の上段 そして 去る 8年前の10月5日(月)の『硫黄島』のブログ の下段などに、母校の某・都立高校のことを言及させて頂きました。
また、去る 昨年の11月22日(火)の『高校1年生のときのこと』のブログの上段に、
『(前略)当方は ホームルーム長でした(後略)』と記させて頂きました。
ならびに、去る 9年前の10月8日(水)の『親の受診に付き添っていること・1』のブログ そして 去る 9年前の11月9日(日)の『親の受診に付き添っていること ・2』のブログのそれぞれ 共に中段やや上、更に、去る 8年前の2月23日(月)の『天皇陛下行幸の君恩に浴して』のブログの中段に記させて頂きました 某・ボランティア(英語:volunteer)のサークル(英語:circle)の 『石川雅弘』という 上記の母校の某・都立高校の同窓の先輩男性にも、伝えたことであります。すなわち、高校二年生のとき 母校の某・都立高校の左翼の宿谷晃司・国語教師が 授業中 『三島由紀夫は 頭がおかしい』と話したことに対して 悔しかったことがありました。 因 みに、立ち上がって 意見しようかと思われたことがありました。但し、上記のように、ホームルーム長でありました。しかし乍ら、今 思えば、ホームルーム長であったとしても、あのときに もっと 勇気があったら、『意義あり』と言えたのであろうと思われました。(後略)」と記させて頂きました。
および、本日は、三島由紀夫の命日 すなわち 憂国忌であります。 因 みに、今年で 54回目の憂国忌が行われますね。なお、今回も、仕事を始める前に一分間の 黙禱を させて頂きました。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)