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さて、本日、すなわち、8月9日は長崎原爆の日ですね。因みに、去る1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ の中段に、
「(前略)この方の お父さんが長崎で被爆され、放射能に被曝されたとのことでした。広島の被爆者はどこに祀られているのでしょうと尋ねられましたので、平成2年夏、訪れましたが、原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑。以下、広島平和都市記念碑と記させて頂きます。)と答えました。帰宅して調べましたら、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和の礎となって祀られているとのことです。十数年前、長崎の平和祈念像にも訪れました。(後略)」と記させて頂きました。前述致しましたように、去る平成2年夏に訪れました広島平和都市記念碑の前で撮影りました写真を、下に掲載させて頂きます。

広島平和都市記念碑の前
遠くに原爆ドーム(英語: Hiroshima Peace Memorial・Atomic Bomb Dome)が見えます。画像をクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、拡大致します。
ときに、日本に原子物理学を紹介した第一人者である、原子物理学者の仁科 芳雄博士が見えます。日本の現代物理学の父とも云われています。同・博士が陸軍の要請で広島に飛んだのは、昭和20年(1945年)8月8日でした。同・8月6日朝、広島市街を壊滅させた米軍の「特殊爆弾」の正体を調べる為でした。しかし乍ら、同・博士は出発前から、それが原子爆弾であることを確信していました。何故ならば、同・博士も、「ニ」号研究といって、原子爆弾(以下、原爆と記させて頂きます。)の開発を行っていたからです。但し、「ニ」号研究は、完成に程遠かったです。理論上は、天然ウラン(独語: Uran)から同位元素・ウラン235を濃縮分離することで、強大な爆発力を持つ爆弾が造れるということはわかっていました。理論では、米軍に劣らない最先端の研究が、日本でもなされていました。ところが、濃縮の為の設備があった理化学研究所(理研)の四十九号館は、昭和20年4月、米軍の空襲(日本本土爆撃)によって破壊されました。同・6月、同・博士は、原爆の開発を断念しました。そして、米国も原爆を造れないだろうと結論付けたとのことです。
実際、戦時中、福島県石川町では、ウラン鉱石の採掘が行われていました。14~15歳の中学生が、毎日掘り続けたとのことです。しかし、仮にウラン235の濃縮分離に成功したとしても、当時の日本がウラン鉱石の必要量を集めることは、事実上不可能であったとのことでした。
広島に飛ぶ前夜、同・博士は、理化学研究所(理研)・仁科研究室の方に、激しい調子とされる置手紙を残しています。この手紙の写しは、埼玉県和光市の理化学研究所(理研)記念資料館で見ることが出来ます。当方は、10年前、すなわち、平成17年暮れに、東京・上野の国立科学博物館で開催された、日本の科学者技術者展シリーズ 第2回「仁科芳雄と原子物理学のあけぼの」で、この手紙の写しを見ました。そして、全文を筆記致しまして、手許に御座います。そこで、部分的に2箇所を引用させて頂きます。すなわち、「今度のトルーマン(英語: Harry S. Truman)(当時の米国大統領)声明(引用者注・広島に史上初の原爆を投下したという声明)が事実とすれば、吾々『ニ』号研究の関係者は、文字通り腹を切る時が来たと思う。」、また、「トルーマンの声明する通り米英の研究者は日本の研究者即ち理研の四十九号館の研究者に対して大勝利を得たのである。」とのことで御座います。後になってわかったことですが、当時、「ニ」号研究の関係者が約20人であったのに対して、米国の研究者は総勢約12万人であったとのことです。
同・博士は、引き続き同・8月14日には、2発目の原爆が投下された長崎でも現地調査を実施し、原爆であることを確認しています。レントゲン・フィルム(英語:X-ray film)が感光していることなどから原子爆弾であると断定し、政府に報告しました。
広島、そして、長崎への原爆投下で亡くなった犠牲者数は、両市の「公式見解」によりますと、広島約14万人、そして、長崎約7万人とのことです。共に原爆による昭和20年末迄の死亡者数です。某・新聞によりますと、米国の中・高校生用の歴史教科書の中で、広島、そして、長崎への原爆投下で亡くなった犠牲者数を、両市の「公式見解」に沿って記しているものが極めて少ないことが日本の研究者の調査で分かったとのことです。すなわち、犠牲者数を掲載しないか、掲載しても多くは「公式見解」の半分程とのことです。被爆者を蝕む放射線の長期的な健康への影響に触れた教科書もほとんど無いとのことです。
去る 昨年の10月7日(火)の「ボランティア・地域医療」のブログ の中段に記させて頂きましたように、このときは、東日本〇〇〇(お読み下さいます方々に影響を お与えすることの無いように、御賢明であらせられます お読みの方々はすぐにおわかりになられる、と存じ上げますので、敢えて〇〇〇と綴らせて頂きました)に被災なされました方々の為に、一分間の黙禱を、皆でさせて頂きました。原爆の犠牲者になられました方々の御冥福を心より お祈り申し上げさせて頂きます。東日本〇〇〇と同様に戦争の記憶を風化させないように、と思っております。去る3月10日(火)の「煮物」のブログ の冒頭にも、
「(前略)本日は昭和20年3月10日の東京大空襲の日で御座いますので、黙禱させて頂きました。御承知のように、丁度70年目の年になります。因みに、当時、母親は14歳で、東京・市ヶ谷の大本営の近くに住んでいました。記憶を風化させないように、と思っております。(後略)」と記させて頂きました。日本の重大なこと、および、一大事で、知っていること、そして、知ってしまったことは お伝えさせて頂きますことが使命であると思わせて頂いております。それで、語り継がせて頂かなければならないと感じております。
ところで、同・博士は、昭和14年(1939年)2月には200トンもの大型サイクロトロン(英語:cyclotron)(粒子加速装置)本体を完成させ、昭和19年(1944年)1月から実験を始めています。戦後、すなわち、昭和20年11月、連合国軍最高司令官総司令部(G.H.Q.)が理化学研究所(理研)に入り、このサイクロトロンは東京湾に投棄されたとのことです。サイクロトロンと原爆は関係ありませんが、G.H.Q.には通用しなかったようです。同・博士にとりましては、かなりショック(英語:shock)なことであったでありましょう。因みに、当方も、研修医の頃、母校の、某・理事長に勧められて入局した内科学教室から派遣されて、サイクロトロンのある某・国立療養所に7ヶ月以上、行っていました。そこで、サイクロトロンを用いたP.E.T.(英語:positron emission tomography)(陽電子放出断層撮影)検査に携わっていました。サイクロトロンは、医療にも利用されます。母校の内科学教室に入局致しました経緯につきましては、去る3月16日(月)の「納豆(昨日のおかず)」のブログ の冒頭にも記させて頂きました。
昭和26年(1951年)1月10日、同・博士は、liver cancer(英語)(ネガティブ[negative]で御座いますし、お読み下さっている方々に影響を お与えすることの無いように、日本語で綴ることを控えさせて頂きましたが、以前、それではわからない、と指摘を頂きましたので、日本語も併記させて頂きます。小さく記させて頂きます。肝臓がん[敢えて、平仮名で記させて頂きました。]のことで御座います。以下、liver cancerと記させて頂きます。)で、60歳(生誕日は明治23年[1890年]12月6日)で逝去されます。このliver cancerの原因につきましては、当時は未知の部分が多かった放射線などの研究を戦前から長年行っていたことや、原爆投下直後の広島・長崎に入市し被曝したことを要因と考える説など諸説が御座います。
元・日本医師会会長の武見太郎氏は、理化学研究所(理研)に入所し、同・博士の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究したことがあるとのことであります。その関係の為か、前述致しましたように、同・博士がliver cancerの際に、同・氏が診察したとのことで御座います。
前述のように、同・博士が陸軍に協力したことを残念に思う方が見えます。しかし乍ら、戦場の兵士はもとより、空襲で女性や子供迄が殺されていくなかで、同・博士が新兵器を完成させる義務感に駆り立てられたとしても、不思議では無いとされています。当時の日本の状況では、已むを得なかったことであるかと思われます。
後にノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎氏も、仁科研究室の一員でした。
また、前述の「仁科芳雄と原子物理学のあけぼの」で、同・博士と同じくノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹氏によって昭和10年代から昭和20年代前半にかけて交わされた往復書簡約40通が公開されました。去る1月25日(日)の「ボランティア・地域医療・その2」のブログ の中段やや上に、
「(前略)ノーベル物理学賞でいえば、受賞した日本人の某・理論物理学者(去る1月8日【木】の『閃きとインスピレーション[inspiration]』のブログの中段で言及させて頂きました)がπの存在を着想したのも、(後略)」と記させて頂きました。御承知のように、同・氏は昭和24年(1949年)に、前述の中間子理論でノーベル物理学賞を受賞しますが、当初は海外の研究者にこの理論を批判されていました。これらの書簡からは、落ち込む湯川秀樹氏を同・博士が励ます様子が読み取れ、研究者の内面を物語る貴重な資料になっているとのことでした。因みに、母校の中学校の門標は、湯川秀樹氏が揮毫したものでした。
去る2月14日(土)の「絵本の影響」のブログ の中段やや上に、
「(前略)子供達の将来の進路の参考になるように、主に、日本の偉人伝の お話です。(後略)」と記させて頂きましたが、仁科 芳雄博士の話を致しました。同・博士は日本の偉人として尊敬する方の一人です。因みに、同・博士の存在を知ったのは、小学生高学年のときでした。なお、誠に有り難いことに、その仁科 芳雄博士 と 漢字は違いますが、氏名の読みが 自分と同姓同名なのであります。序で乍ら、去る5月15日(金)の「記銘された氏名」のブログ の上段に、
「(前略)患者さんも驚いてくれ、周囲の方々に告げてくれ、記銘されましたことは、自分と同姓同名の患者さんが見えたことでした。それ位、珍しい氏名なので御座います。(後略)」と記させて頂きました。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)