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さて、去る 9年前の1月20日(火)の「一枚の写真(ニュー・オーリンズ[ルイジアナ州])」のブログの上段に、
「(前略)去る 昨年の10月30日(木)の『東・西ベルリン(東・西独)』のブログ 、そして、去る 昨年の11月2日(日)の『時差ぼけについて』のブログで お伝え申し上げましたように、学部生の頃(昭和62年春休み・菜食を始める前のことです)に、約3週間の日程で、まず、エコノミー(英語:economy)に、マレーシア航空を用いて、往路、東京(成田・3月21日【土】昼過ぎ発)から ロサンゼルス(英語: Los Angeles)(3月21日【土】午前9時20分着・日本との時差は17時間)(偏西風の関係で、往路は復路よりも約1時間、飛行時間が短縮されるとのことであります。)迄、移動しました。そこから、グレイハウンドのバスを用いて、約4、200kmを横断致し、ニューヨーク迄行き、そこからもう一回 北米大陸を横断致し、ロサンゼルスに戻ってきました。
更に、去る 昨年の11月2日(日)の『時差ぼけについて』のブログで、詳細に、
『ロサンゼルスから、グレイハウンドのパスを使い、夜行バスを用いて、ロサンゼルス(英語: Los Angeles)(カリフォルニア州)、ツーソン(Tucson、パパゴ語:Cuk Ṣon)(アリゾナ州)、エル・パソ(英語: 西語: El Paso)(テキサス州)(一昨々日[10月30日【木】の【東・西ベルリン】]のブログで言及致しました)、サンアントニオ(英語: San Antonio)(テキサス州)、ニュー・オーリンズ(英語: New Orleans)(ルイジアナ州)、・・・』と お伝え申し上げました。
因みに、グレイハウンド・バスの乗り放題パス(英語:discovery pass)は もう売られていないのだそうです。米国(アメリカ)、そして、カナダとも、2012年9月末で廃止されたそうです。旅行当時、日本で、18日間のパスを購入しました。パスはメモ帳のような冊子になっていて、出発地と到着先を記入して、乗車時、車掌に見せていました。一冊が 一杯になったら、どうしようかと思っていましたが、誠に有り難いことに、バス・ターミナルで、新たに パスの冊子を貰うことが出来ました。今でも、この乗り放題パスが販売されていましたら、御参考の為に、当時の18日間のパスの価格を記させて頂こうと思いましたが、前述のように、もう売られていませんので、お知らせすることを割愛させて頂きます。
また、何故 バス(英語:buss)のような ゆっくりとした交通機関を用いて、広い米国の旅を行ったのか という理由も、去る 昨年の11月2日(日)の『時差ぼけについて』のブログ の上段やや下に記させて頂きました。
去る 昨年の10月28日(火)の『スイス(海外のこと)』のブログの冒頭に記させて頂きましたように、欧州(ヨーロッパ)では、鉄道が発達していて、ユーレイル・パス(当時、欧州[ヨーロッパ]以外の地域で購入出来る、欧州の鉄道のパスのこと。日本にも、日本以外の地域で購入するパスがあると聞きました。)が利用出来ますが、米国では道路が発達しています。コロラド州に鉄道はありましたが、蒸気機関車による観光鉄道です。従って、米国で、ゆっくりとした交通機関といいますと、バスということになります。
更に、去る 昨年の11月19日(水)の『バチカン(ローマ)』のブログに、伊のことを記させて頂きました。伊のことは、独を代表する某・文豪による『イタリア紀行』、そして、某・日本思想史家による『イタリア古寺巡礼』のような『イタリア紀行』に書かれてあります。一方、日本の 故・某・歴史小説家によりますと、米国のことは映画で充分であり、米国に訪れるまでのことも無いと思っていたとのことでした。しかし乍ら、この某・歴史小説家は訪米し、『アメリカ素描』という本を執筆しました。この著書を、この米国旅行の前に購入しました。(後略)」と記させて頂きました。
ならびに、去る 8年前の1月21日(木)の「旅の安全」のブログの上段に、
「(前略)このときも、格安なバス旅行を選びました。但し、同じく 去る(一昨年の)11月2日(日)の『時差ぼけについて』のブログ の中段やや下に、
『(前略)グレイハウンドのバスに乗っていて、夜間、州警察が乗り込んで来て、全員起こされました。犯人が乗り込んでいるのではないか、と確認する為に来たのです。バスの乗客全員が、州警察によって パスポート(英語:passport) もしくは 身分証明書の提示を求められました。また、空港からダウンタウン迄の短距離に、このバスを利用する日本人女性2人が乗車して来ました。遠くから見ていますと、震えているのですね。これを見て、リトマス試験紙のように、また、対照試験(コントロール試験)のように、このバスに乗車することはリスクがあるのだな、と初めて思いました。(後略)』と記させて頂きましたように、リスクはありました。(後略)」と記させて頂きました。すなわち、インターネットで調べましたら、グレイハウンドのバスは 途中で 刑務所から出てきた人を 沢山 拾っていく とのことでありました。つまり、田舎町では 刑務所の前に停留所を設けているところが多いのだそうであります。
ときに、昭和62年4月1日【水】には、シカゴ(英語: Chicago)(イリノイ州)に居りました。 因 みに、昨日 すなわち 2月6日(火)の「Niagara Falls(カナダのオンタリオ州)」のブログに、Niagara Fallsのことを記させて頂きました。それで、そのブログの最後に、
「(前略)機会がありまして 宜敷ければ、更に その続きを記させて頂きます。(後略)」と お伝え申し上げまして、誠に有り難いことに、「いいね」を頂きましたので、今回、その続きを記させて頂きます。
すなわち、その昭和62年4月1日【水】の前日 つまり 昭和62年3月31日【火】には、ナイアガラ・フォールズ(英語:Niagara Falls)(加のオンタリオ州)に居りました。なお、Chicagoの歴史を見てみます。すなわち、禁酒法時代 つまり 禁酒法が制定されていた時代 要するに 1920年代のことであります。取りも直さず、その舞台では、Chicago マフィアのアルパチーノが 幅を効かせていた時代であります。序で乍ら、家政婦が 海外のことを知りたいと言うので、話したことであります。すなわち、結局、その禁酒法は、マフィアに利用されるのでありますね。つまり、御承知のように、お酒の 闇 取引が行なわれて、マフィアの財源になるのでありますね。
ところで、昭和62年3月31日【火】午前3時45分 クリーブランド(英語:Cleveland)(オハイオ州)に 到着予定が、午前4時10分になりました。それで、慌てて №11gateへ 行きました。すると、結局 遅れて、出発は 午前4時40分になりました。 因 みに、写真フィルム、お煎餅、梅干、Tシャツ、ポカリ スエット、パンフレット、そして、タオルで巻いた お土産などの荷物を整理しました。それから、水を汲んで、髭を剃りました。なお、Chicago(イリノイ州)に 午前11時 到着予定が、午前11時45分に遅れました。それで、慌てて バスを降りて、荷物を整理しました。そうして、荷物を入れ換えて、先の到着地である デンバー(英語:Denver)(コロラド州)に 送りました。そこで、時計を見ると、午前0時30分でありました。序で乍ら、世界最大の穀物取引所である Chicago商品取引所は 午前0時45分迄 でありましたので、諦めました。 因 みに、お気付きのように、立会場 事務合理化システム導入前の当時のことであります。すなわち、Chicago商品取引所の熱気は 凄そうなので 見たかったのでありますが、残念でありました。
それで、証券取引を見ようと、World Trade Center に向かいますが、雨が降っていた為に 高架鉄道に乗ります。 因 みに、Chicagoの高架鉄道は 映画「シカゴ・コネクション」などでも 有名でありますね。なお、その高架鉄道の下には、道路が走っています。序で乍ら、その映画では、その道路上で カー チェイスが行われます。

高架鉄道の駅のホーム(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
ところが、環状線と間違えてしまいました。 因 みに、実際は、北方向に行ってしまいました。それで、慌てて 乗り換えますが、down townを一周して また bus depot(日本語:バス発着所)に戻ってしまいました。なお、今度は 事故があって、電車が来ませんでした。そこで、仕方がなく 歩いて 40分間の時間的ロスでありました。序で乍ら、途中 First Chicago Bankで トラベラーズ・チェックで 100$迄 両替出来ると言われたので、100$を両替しました。そして、World Trade Center に行きました。すると、丁度 終了して 引き上げて来る処でありました。因 みに、大勢の人でありました。なお、服の色の違いは 役割の違いなのでありました。なお、残念乍ら、World Trade Center での証券取引の様子は、絵葉書を見ることによって我慢しました。そして、Chicago美術館へ行きます。序で乍ら、午後2時30分頃に 到着します。因 みに、美術の教科書で よく見ていた 点描法が用いられている 仏の画家ジョルジュ・スーラ「グラント・ジャッド島の日曜日」であります。なお、門外不出、Chicago美術館でしか見られない この絵が素晴らしかったです。序で乍ら、去る 9年前の7月23日(木)の「蘭・1」のブログの上段、去る 9年前の1月16日(金)の「一枚の絵画(ブルージュ[ベルギー])」のブログの下段 そして 去る 10年前の11月1日(土) の「東ベルリン(旧・東独)」のブログの中段などにも記させて頂きましたように、ここでも、誠に有り難いことに、フラッシュを焚かなければ、写真を撮影っても いいとのことでありました。

点描法が用いられている 仏の画家ジョルジュ・スーラ「グラント・ジャッド島の日曜日」(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

点描法が用いられている 仏の画家ジョルジュ・スーラ「グラント・ジャッド島の日曜日」(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
そして、当時 世界一とされる 水族館に向かいました。

(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
因 みに、Chicagoには、建築家が見学に来るとのことであります。すなわち、建築物が しいのであります。なお、竹輪を斜めに切ったような ユニークな建築物がありますね。

右側に、竹輪を斜めに切ったような ユニークな建築物(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

Chicagoのビル群(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
因 みに、午後4時頃、ミシガン湖畔を歩きました。なお、曇っていて その湖は綺麗に見えませんでしたが、何と 広いことでありましょう。すなわち、海のようでありました。序で乍ら、Chicagoは、海風ならぬ、北からの湖風が強く吹く都市なのであります。

ミシガン湖畔(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

ミシガン湖畔から見た Chicagoのビル群(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

ミシガン湖畔(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

ミシガン湖畔から見た Chicagoのビル群(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

ミシガン湖畔から見た Chicagoのビル群(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

ミシガン湖畔(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
因 みに、途中 人通りが少なく 写真を撮影り乍ら、水族館に着くと 午後4時30分でありました。なお、初め チケットを買っていなくて、閉館と言われました。それで、“I’m from Japan.I heard it’s very interesting.Now is it closed?”、すなわち、「私は、日本から来ました。私が 聞いた限りでは、この水族館は とても興味深いとのことでありました。閉館ですか。」と話しましたら、誠に有り難いことに、入れてくれました。とても luckyでありました。序で乍ら、水族館の中は 素晴らしかったです。因 みに、赤と白の変わった海老、ビーバー、鮫、蛸、海亀 そして 深海魚などが居ました。それから、中央の大きな水槽があり、イソギンチャク そして クマノミが居ました。たいへん 素晴らしい水族館でありました。

海亀(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

The Coral Reaf(日本語:サンゴ礁)の水槽(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
そうして、午後4時55分に 外に出てみますと、何と 晴れているではありませんか。それで、更 に 写真を撮影りました。

ミシガン湖畔から見た Chicagoのビル群(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

ミシガン湖畔から見た Chicagoのビル群(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

ミシガン湖畔(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

Chicagoのビル群(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
そして、プラネタリウムに行きました。ところが、平日は 午後2時だけでありました。なお、土曜日 と 日曜日は 午後1時、2時、3時 そして 4時からでありました。そこで、仕方なく また 戻りました。途中 ボストンの人と一緒になし、話しました。そうして、ミシガン通りで Chicago美術館の前に concert hallがあり、で バルコニー席を購入しました。そのときに 黒人風の人と逸れてしまいました。

concert hall(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

concert hall(演奏終了時)(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

concert hallの玄関前(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
それから、ジョン・ハンコック・ビルに向かいました。 因 みに、途中 Chinese(日本語:支那)のcafeで vegetable on the rice(日本語:御飯の上の野菜)を頼むと、山盛りでありました。これで、4$は 安かったです。そうして、途中で ナッツのアイスクリームを頼むが、これも 美味 かったです。
そして、去る 昨年の9月21日(木)の「香港」のブログの下段に、
「(前略)その際、彼が 100万$の夜景のことを尋ねました。それで、電気代が 100万$ 掛かっていると回答しました。しかも、200万$ 掛かるとも言われていたことを話しました。(後略)」と記させて頂きました。なお、ジョン・ハンコック・ビルの上に上がると、そこは 別世界でありました。何と 素晴らしいのでありましょうか。しばし 声が出ませんでした。すなわち、Chicago の夜景に 圧倒されました。 因 みに、夜景と云えば 上記の香港とされていますが、それ以上でありました。序で乍ら、家政婦にも 下の写真を見せましたが、光の絨毯のようでありました。なお、写真でありますと 今一と お思いになられるかもしれませんが、実際は それ以上に 本当に 凄いです。 因 みに、その100階建ての超高層ビルは 昭和44年(1969年)の完成当時、Chicago 一の高さであり、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルに次ぐ 世界二位の高さでありました。序で乍ら、Chicago の夜景を 360°見渡せる 展望階でありました。

Chicago の夜景(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

Chicago の夜景(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

Chicago の夜景(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

Chicago の夜景(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
時間は 午後7時15分でありました。 因 みに、そのジョン・ハンコック・ビルの展望階で、北海道大学 と 名古屋芸術大学の 二人 の男子学生と 一緒になりました。なお、その名古屋芸術大学の男子学生から、ロサンゼルス(英語: Los Angeles)(カリフォルニア州)の美術館は よいと言われました。そして、その男子学生によりますと、夜 歩いても大丈夫とのことでありました。しかし乍ら、既に ロサンゼルスを訪れている者と致しましては、これは 危険であると思われました。そうして、下に下りて、同じ elevatorでありました 印度人と 一緒になりました。それで、誠に有り難いことに、当方たち 三人を 車で送ってもらいました。そこで、名刺を手渡し、日本に どうですか と伝えました。
それから、holeに入ると、intermission(日本語:休憩時間)であり、時間は 午後8時50分でありました。 因 みに、6階であります。なお、午後9時10分から始まりました。序で乍ら、途中 ポロネーズが とても よかったです。そして、アンコールが 4曲もなされました。 因 みに、帰りに 日本人の医大の人と 一緒になり、誠に有り難いことに、車で送ってもらいました。なお、その医大の人によりますと、10年前に 卒業したとのことでありました。序で乍ら、Chicagoは 南の治安が悪いが、Chicago大学は その方向にある とのことでありました。 因 みに、Chicagoは 北は 安全とのことでありました。
なお、Chicagoピザを食べることが出来る店である “Gino”に着きましたが、別の店でありました。それで、2 block 西へ、そして、3 block 北に歩いて、午後10時40分に 到着しました。ところが、店の主人によりますと、「悪かった、もう 帰ろうとする処だった。」とのことでありました。
そして、ピザを食べますが、middle (日本語:並)の注文で 三人で 充分でありました。序で乍ら、生地が パン(葡語:pão)か ホット・ケーキのようでありました。ビールも 2pint(米国のU.S.pintは 473㎖、英国のU.K.pintは 568㎖であります)で 充分でありました。 因 みに、これで、8.50$は 安かったです。但し、去る 10年前の10月24日(金) の「健やかに生活をして頂くために」のブログで お伝え申し上げましたように、医者(研修医)になってから、ポケベル(今は ほとんど用いられていませんね)を持つようになり、夜中でも呼び出されましたので、お酒を止めました。

Chicagoピザの店で(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

Chicagoピザの店で(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)

Chicagoピザの店で(左に座っている 米国人は、上記の 店の主人であります)

右の北海道大学の学生は ビールを飲んで 顔が赤いですね(昭和62年[1987年]4月1日【水】の日付が記されています)
そして、一人で bus depot(日本語:バス発着所)迄 歩きますが、途中 寒かったです。そうして、午前0時30分に 出発予定であります。因みに、海外に行きますと 思いますことは、やはり 日本が 一番 いいということであります。
なお、以上のように、Chicagoには 1日居て、一人で 夜行バスで、セント ルイス(英語: St. Louis)(ミズーリ州)に向かいました。大陸を横断する為のセントルイス行きの夜行バスは、一日に一本のみであります。因みに、機会がありまして 宜敷ければ、更に その続きを記させて頂きます。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)