スイス(海外のこと)

 このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。

 リンクを らせて頂いております。紫色のブログ・タイトルをクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)

 学部生の頃(昭和61年の夏・菜食を始める前のことです)、エコノミー(economy)に、シンガポール航空を用いて、往路、東京(成田・8月19日【火】午後6時30分発)からロンドン(英国)(翌々日・8月21日【木】午前6時55分定刻通り着・日本との時差はサマータイムで、8時間)(まで)、途中、シンガポールで、丸一日のトランジット (英語:transit)(一時寄港)があり、シンガポール8月20日【水】午前0時着・同日午後8時25分発、南回りで、トータルで、44時間25分でした。シンガポールでは、今は無い オベロイ・インペリアルホテルという中堅のホテルに宿泊しました。

 主に、ユーレイル・パス(当時、欧州[ヨーロッパ]以外の地域で購入出来る、欧州の鉄道のパスのこと。日本にも、日本以外の地域で購入するパスがあると聞きました。)を用いて、二学期が始まる9月9日【火】迄、欧州(ヨーロッパ)中を旅しました。

 ガイドブックを一冊のみ持って、一人で、往復の格安航空券だけで自由旅行をすることは初めてで御座いましたので、旅の最初、ロンドン(英国)のヒースロー空港(英語: London Heathrow Airport)に降り立ったときには、これからどうしようか途方に暮れました。しかし乍(なが)ら、取り敢(あ)えずダウンタウンに行こうと思いましたら、何とかなるもので御座いますね。欧州(ヨーロッパ)旅行の最初に訪れる国は、英語の通じる英国がいいとされています。旅に慣れて来る迄は、馴染(なじ)みのある言語を用いる国の方(ほう)が比較的安心です。

 今回は、途中、スイスに立ち寄りましたことを記させて頂きます。(^O^)

 登山電車(ユングフラウ鉄道[Jungfraubahn])のその日一番電車が割引料金とのことでしたので、当初は、8月29日【金】午前7時40分 Interlaken(インターラーケン)発、午前9時2分に、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)着、そして、午前9時58分、Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(御承知のように、独語:Jungfrau は「乙女」「若いぉ嬢さん」の意味)(標高3454m)の予定でした。

 実際は、8月29日【金】・午前4時42分、Basel(バーゼル)、午前5時31分、丁度Olten(オルテン)で目覚めました。そして、午前5時31分、Olten(オルテン)からBern(ベルン)で降りるはずが、午前6時55分、Fribourg(フリブール)迄行(い)ってしまいました。乗り換えるため、降りるべきBern(ベルン)で目覚めたのですが、起きたばかりで注意力散漫で、日本とは違い、列車の到着が定刻通りでは無いことがあるので、この駅で降りていいものかどうかもハッキリわからず、鉄道員にも聞かず、降車し損(そこ)なってしまいました。教訓と致しましては、手許(てもと)にあった(time table)(タイム・テーブル)(時刻表)だけでは不充分(ふじゅうぶん)で、鉄道員にきくことですね。

 因(ちな)みに、東・西独(ドイツ)が存在致しましたときに、東・西ベルリンに行きましたが、直通の列車で、西独のハンブルクから、3時間半で、まずは、西ベルリンに入るルートが御座いました。もう一つのルートは、ハノーバーから入るルートで御座います。東独(ドイツ)内では、列車が電化されていませんでした。下の写真は列車の窓から撮影した景色で御座いますが、お気付きのように、架線が御座いません。御承知のように、インフラにおきましては、西独(ドイツ)が勝っていました。

ドイツ・列車
東独(ドイツ)内の列車

 当時、東独(ドイツ)内はユーレイル・パスが効(き)かないので、国境駅からの運賃を支払わなければなりませんが、直通列車は国境駅で乗り換える必要が御座いません。

 この点、仏(フランス)から、西(スペイン)に入国する際に、 仏(フランス)の鉄道は狭軌、そして、西(スペイン)の鉄道は広軌なので、午前5時8分に、国境駅のPort Bou(ポルトボウ)で乗り換える必要がありました。

 そこで、去る10月11日(土) のブログで記しましたように、翌年の昭和62年、エコノミー(economy)に、パキスタン航空を用いて、欧州(ヨーロッパ)に行った際には、西(スペイン)のマドリード(Madrid)から仏(フランス)のパリ(仏語: Paris)に行くときに、寝台車を利用致しました。これですと、夜中に国境駅で起こされて、長い列を待って(前述のPort Bou[ポルトボウ]のときがそうでした。)、パスポート・コントロール(passport control)(出入国審査のこと)する必要が御座いません。パスポートは寝台車の車掌に預けます。ユーレイル・パスを持っていますと、寝台分の追加料金を支払えば、利用することが出来ます。但し、当時の西(スペイン)では、主要な駅(後年、オリンピックが開かれたバルセロナ駅のことです。)でも、端末が無く、しかも、すべて手作業で御座いましたので、この駅で寝台車の予約を入れるために長い列を並び、漸(ようや)く購入した覚えがあります。

 因(ちな)みに、寝台車には、広軌と狭軌の双方に対応することが出来る機能が備わっている、すなわち、両方の車軸が装備されているとの旨のことでした。

 日本で、東独(ドイツ)大使館に行って、滞在ビザ(Visa)が発給されていましたので、東独(ドイツ)の入国係官が直通列車内に来て、パスポートと共に見せました。

査証
東独(ドイツ)の出入国印

 単に西ベルリンに行くだけでしたら、東独(ドイツ)の入国係官が車内に来て、西ベルリンに行く人のパスポートを見て、トランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)を渡してくれます。

 このトランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)を持っている人が注意しなければならないことは、西ベルリンの中央駅(Zoo Bf)(最初、何故[なぜ]中央駅にZooと付くのかわからなかったのですが、動物園があるので、Zooという名称が付いています。デンマークの首都であるコペンハーゲンでも、駅前にチボリという遊園地がありました。日本でも、例えば、東京の北の玄関口である上野には、駅の近くに動物園がありますね。)で必ず降りることです。降り損(そこ)なって、車内にいると、10分で、東ベルリンの駅にビザ(Visa)無しで降り立つことになります。

 しかも、このトランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)ですと、その日の夜12時迄に、西側に戻らなければなりません。

 また、いずれに致しましても、当時、東ベルリンに入るためには、25DM(ドイツ・マルク)の強制換金が御座いました。

 東・西独(ドイツ)のDM(ドイツ・マルク)のレートは1:1でした。しかし乍(なが)ら、実際の価値は西独(ドイツ)マルクの5に対して、東独(ドイツ)マルクが1でした。西独(ドイツ)の銀行では、1西独(ドイツ)マルクに対して、5東独(ドイツ)マルクを換金してくれるとのことです。但し、社会主義圏での経済犯は罰則が重く、日本円で100万円程度の西独(ドイツ)マルクを西独(ドイツ)の銀行で5倍のレートで換金して、東独(ドイツ)に持ち込もうとした独(ドイツ)人が発見されて、極刑だったとのことを旅行中に聞きました。

 西ベルリンを見て、東ベルリンに入国しようと思っていましたので、このときは確かに西ベルリンの中央駅(Zoo Bf)で降りました。仮に、この駅で、降り損(そこ)なっても、滞在ビザ(Visa)を持っていましたので、大丈夫で御座いました。しかし乍ら、東ベルリンの次は東独(ドイツ)内を通って、チェコ・スロバキア(御承知のように、現在はチェコとスロバキアに分かれています。)に行(い)こうと、チェコ・スロバキアの滞在ビザ(Visa)(同じくチェコ・スロバキア大使館に行[い]って、発給されましたが、数千円という結構な額でした。)を持っていましたので、降り損(そこ)なったら、西ベルリンに戻ることはしなかったでしょう。だから、西ベルリンは見ていなかったと思います。この年は、去る10月11日(土) のブログで記しまして、前述させて頂きましたように、翌年の昭和62年、エコノミー(economy)に、パキスタン航空を用いて、欧州(ヨーロッパ)に行った年で、大曲の花火の件で有名なベルリン市制750年祭典(1987年)(昭和62年)の年でした。

 但し、事前に知らず、調べておりませんでしたので、何処(どこ)でぉ祭りが行(おこな)われているのかわかりませんでした。

 翌日には東ベルリンに入りました。

 なお、記憶を確認しましたが、実際には フリードリッヒ・シュトラーセ(Friedrich str.)駅で、1日ビザ(トランジット ・ビザ[transit visa][通過査証])を獲得しました。そして、上記の25DM(ドイツ・マルク)の強制換金が御座いました。

査証
チェコ・スロバキアの滞在ビザ(Visa)と出入国印

 東欧は、チェコ・スロバキア(プラハでも日本人が少なく、一泊二日で、日本人に一人しか会いませんでした。)の後は、ハンガリー、ユーゴスラビア(当時の名称)、ブルガリア、そして、トルコに抜けました。同じく、ハンガリーも、ブルガリアも大使館に行って、滞在ビザ(Visa)が発給されましたが、やはり結構な額でした。今回はスイスのことですが、機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、東欧のことを記させて頂きます。

査証
ハンガリーの滞在ビザ(Visa)と出入国印
査証
ブルガリアの滞在ビザ(Visa)と出入国印 

 西ベルリンから東ベルリンに入る方法は3通り(私達のような遠距離からの旅行者は2通り)あり、一つは電車で、フリードリッヒ・シュトラーセ(Friedrich str.)駅から入る方法(この方法で入りました)と、もう一つはチェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)から歩いて入る方法、そして、さらに もう一つはブランデンブルク門から入る方法です。最後のブランデンブルク門から入る方法は、主に、車で用いられていたと思います。

 チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)の西ベルリン側には、下のパンフレットの壁博物館がありました。

ドイツ・チェックポイント
壁博物館のパンフレット
実際のチェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)
ドイツ・ブランデンブルグ
ブランデンブルク門

 1961年8月13日にドイツ民主共和国(東独[ドイツ])政府によって建設された、西ベルリンを包囲する壁で御座います。

 当然のこと乍(なが)ら、当初、直(す)ぐに下のような壁が出来た訳では御座いません。 初めはソ連兵も加わって、人間でバリケートを設けたと伺っています。

ドイツ・壁
西ベルリンから見たベルリンの壁
ドイツ・壁
西ベルリンから見たベルリンの壁
ドイツ・壁
西ベルリンから見たベルリンの壁
 壁博物館で観覧すると、東ベルリンから西ベルリンへ脱出するやり方はいろいろありました。例えば、発電機の箱の中に何人も詰め込んで運ぼうとしたりとか、双子の姉妹で、東・西ベルリンに分かれたケースで、西ベルリンの一方が、ビザ(Visa)で東ベルリンに入って、そのビザ(Visa)で東ベルリンに残されたもう一方を西ベルリンに入国させ、自らはビザ(Visa)を紛失したとして、再発行してもらい、そのビザ(Visa)で西ベルリンに戻ったりとか、バスで乗り越えて、強硬突破しようとして、最後は通路に太いバー(鉄棒)を置かれて、遮(さえぎ)られて最終的に突破が叶わなくて、窓ガラスが粉々(こなごな)であったりとか等で御座います。壁博物館に展示されていますが、下の写真も脱出しようとしている様子です。
ドイツ・壁
 これらの写真の二年後に、御承知のように、ベルリンの壁が崩壊する訳で御座いますが、当時、西独(ドイツ)の首相は自分の存命中に、このベルリンの壁が崩壊すること(東・西独[ドイツ]が統一すること)はないだろう、と思っていたと話していたように記憶しています。
 心理学者A・H・マズロー(Abraham Harold Maslow)によれば、人間には動物と同じ本能があり、それを「5F」と名付けています。

「5F」とは、feeding(フィーディング)(食べること・食欲)、fighting(ファイティング)(戦うこと)、flocking(フロッキング)(群れること)、freeing(フリーイング)(逃げること・自由になること)、そして、fucking(ファッキング)の本能的な5つの欲求のことで、これらのどれもが行動によって満たされると、去る10月13日(月) の「芥子(ケシ)の花ー脳内麻薬」のブログで触れさせて頂いた脳内麻薬が分泌されるとされています。

 但し、これらの行為は上位の脳によって抑制されます。例(たと)えば、どんなに食べ続けていても、15分もすれば、上位の満腹中枢が働いて、それ以上食べられなくなります。因(ちな)みに、ローマ時代には、食べる喜びを享受するために、食べては戻しということを繰り返したということで御座います。

 御承知のように、上位の脳から分泌される脳内麻薬よりも、「5F」を満たすことにより分泌される脳内麻薬の方(ほう)が僅(わず)かですし、持続時間も短期間で御座います。例(たと)えば、どんなに美味(おい)しいものを食べても、せいぜい、そのことを覚えているのは翌日の夜位(くらい)迄で御座いましょう。

 「大脱走」という映画になったり、某・民放で、逃走中という番組が放送されるのも、この「5F」の中のfreeing(フリーイング)(逃げること・自由になること)に関わっているので御座いましょう。

 東ベルリンから西ベルリンへの脱出ということで、余談になりました。

 西ベルリンでは列車を降り損(そこ)なわなかった、ということで、余談をぉ伝え申し上げましたが、スイスの話しに戻させて頂きます。

 そこで、午前7時16分、Fribourg(フリブール)から、午前7時38分、Bern(ベルン)に戻りました。スイスの首都であるBern(ベルン)で時間がありましたので、駅前とAare(アーレ)川を見ました。それで、自己満足であります。

Bern(ベルン)駅前

Bern(ベルン)駅

 午前8時27分、Bern(ベルン)発、午前9時20分Interlaken(インターラーケン)(Jungfraujoch[ユング・フラウ・ヨッホ]の麓[ふもと]の町です。)着

 Interlaken(インターラーケン)で、多少の時間がありましたので、information(インフォメーション)で登山電車(ユングフラウ鉄道[Jungfraubahn])の切符が買えましたが、一番電車は乗り損(そこ)ないました。途中よくしゃべる東北大学・物理学科の大学院生と一緒になりました。

電車からの景色

乗り換え

登山電車内

登山電車内

乗り換え

乗り換え

 午前9時40分、Interlaken(インターラーケン)発、Grindelwald(グリンデルヴァルト)経由、午前11時2分Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)着。そして、このKleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)で乗り換えます。

 午前11時7分、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m発、午後0時3分Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(標高3454m)着。途中、aigerwand Eismeer(アイガーヴァント駅)(駅名は「アイガーの壁」を意味します)(標高2864m)で、5分間、電車を降りますが、雲の中でした。

 Scheidegg(クライネ・シャイデック)を少し過ぎた所からはずっとトンネルの中でありました。

スイス(海外のこと)

(当時 写真屋が 間違って ネガを 裏から プリントしましたね。ちなみに、年月日の表示が 左下に 逆に (うつ)っています)

(この写真も 上の画像と同様に、当時 写真屋が 間違って ネガを 裏から プリントしましたね。ちなみに、年月日の表示が 左下に 逆に (うつ)っています)

 Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(標高3454m)も雲の中かと思いましたが、一転して、快晴、雲の上、素晴らしい眺(なが)めでした。目の前に広がる氷河(アレッチ氷河)です。(最近では、地球温暖化の影響で、この氷河が少なくなって来ているとのことでした。)ちなみに、ヨッホ(ドイツ語:joch)とは 鞍部あんぶという意味です。すなわち、ユング・フラウ(ドイツ語:Jungfrau) と メンヒ(ドイツ語:Mönch)(ドイツ語で、「修道士」を意味する山です)の間の低い部分のことであります。

 そのときは学部生でしたので、登山電車(ユングフラウ鉄道[Jungfraubahn])に 一万円以上支払って、来た甲斐があったと思いましたが、今では時間の方(ほう)が優先しますね。

スイス・ユング
Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)から眺(なが)めるアレッチ氷河
スイス・ユング
スイス・ユング
スイス・ユング
 Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)は、6月下旬から7月初めの初夏か、9月でしたら、曇りの日は比較的少ないとのことですが、この8月下旬は晴れるのが3日に一回位とのことであり、実際、中には、3日間待った人もいるとのことで御座いました。誠に有り難いことに、本当に幸運でした。
スイス・ユング
スイス・ユング
モレーン(英語:moraine)という 2本の線が見えています(モレーンとは 氷河が削った 斜面の岩が 氷河にはさまれて 土手のように堆積した地形のことであり、線に見える とのことなのであります)
スイス・ユング
Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)から眺(なが)めるアレッチ氷河(夏でも溶けきらずに 越年する雪渓を 越年性[多年性]雪渓といます。そして、越年性雪渓では、積雪層が融解と凍結を繰り返すうちに 氷化して 密度0.5g/cm3以上の固い雪(英語:firnフィルン)となります。ちなみに、雪渓が そのまま成長して厚く 大きくなれば 氷河となりますが、氷河が流動するのに対して 雪渓は流動しない点で両者は異なっているとされています)
スイス・ユング
スイス・ユング
スイス・ユング
スイス・ユング

 現在では、Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)駅から、エレベーターで、110m上がった所に、スフィンクス展望台(標高3571m)(1996年に完成)と 氷の宮殿があるそうです。当時は、エレベーターを使わないルートで外に出て見る景色でしたが、それでも、たいへん素晴らしかったです。

 当時、感性のある20代に、海外に行(い)っておこうと思いました。

 Jungfraujoch駅では、フランクフルト&ポテトがいい値段で売られていました。スイスは物価が高いですが、ここは さらに高いです。

 Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)に約2時間滞在して、午後2時5分、Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(標高3454m)発、午後2時50分、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)着。そして、ここを午後2時59分発、午後4時18分、Interlaken(インターラーケン)着でした。今度、下りもユングフラウ鉄道を用いて、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)迄、そして、ここからは、登りと逆コースのヴェンゲン(Wengen)経由の黄色と緑の列車(WAB:ヴェンゲルンアルプ鉄道[独語:Wengernalpbahn ])に乗って降りて来ました。こちらのコースは日本人が少なくて、穴場のようでした。

 登りのGrindelwald(グリンデルヴァルト)経由の方(ほう)が日本人に人気がありそうで混んでいます。

 日帰り致しましたが、一泊するのもいいと思われます。Grindelwald(グリンデルヴァルト)で一泊するのは一つのパターンですが、観光客が多いようです。

 降りて来るときに、鮮やかな牧草の緑の勾配(こうばい)に、赤い屋根の小ぢんまりした家々が散在している光景が目に入りました。正(まさ)しく、幼いときから、スイスに関する写真や映画で見て来た、端整な「絵のような」美しさで御座いました。下に挿入致します。なお、母親は 映画を見て スイスに行きたいと話していましたので、この光景を御覧頂きたいです。

スイス・ユング
スイス・ユング
 
 学部一回生のとき、同級生に勧められて、体育会系ではワンダー・フォーゲル(独語:Wandervogel)(渡り鳥の意味です)部に入部致しました。そして、上級生になり、一学年下のワンダー・フォーゲル部後輩で、マッターホルン(独語: Matterhorn)(標高4,478m)に登りたいと言っていた菜食の男子学部生がいました。3回生のときに、この後輩は亡くなりました。そこで、追悼山行のような気持ちで、マッターホルンに立ち寄りました。
スイス・マッターホルン
マッターホルン(標高4,478m)
スイス・マッターホルン
スイス・マッターホルン

 実際に訪れて頂きたいですが、現場では、空気がピーンと澄んでいます。

 スイス近辺の山には、主に3つの有名な観光地があります。まず、前述した、Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(標高3454m)、そして、このMatterhorn(マッターホルン)(標高4,478m)、それから、仏(フランス)と伊(イタリア)の国境に位置しますが、夏スキーが出来るとされる(仏語: Mont Blanc )(モンブラン)(標高4810.9m)があります。それぞれ、麓(ふもと)の町があり、Interlaken(インターラーケン)、(独語 :Zermatt)(ツェルマット)、そして、Chamonix(シャモニー)で御座います。

 Matterhorn(マッターホルン)(標高4,478m)の麓(ふもと)の町がZermatt(ツェルマット)であり、ここで、ローマ字で氏名を刻んでくれるアーミー・ナイフ(英語: Army Knife)のおみやげを見付けました。自分にも一セット購入致しました。袋付きです。登山やトレッキングのときに一つあると、重宝します。お勧めで御座いますので、下に写真を示させて頂きます。

スイス・マッターホルン
スイス・マッターホルン
スイス・マッターホルン
スイス・マッターホルン
アーミーナイフ
アーミー・ナイフ(英語: Army Knife)(正面)
アーミーナイフ
アーミー・ナイフ(英語: Army Knife)(側面)

 旅を致しますと、その土地その土地で水を飲みますことが楽しみで御座いますが、スイスでは水が飲めます。アルプスの雪解(ゆきど)け水が噴水から流れていますが、循環している水でなくて、飲めると記載してあれば、飲めます。スイスは物価が高く、ミネラル・ウォーターも高いのでエコノミー(economy)(経済的)でもあります。但し、旅行中、欧州の独(ドイツ)のデュッセルドルフ(独語 :Düsseldorf)(日本人の多い大都会・詩人であるハインリッヒ・ハイネ[Christian Johann Heinrich Heine]の家があります。)でコックの見習いをしている日本人にききましたら、独(ドイツ)では、ミネラル・ウォーターを買っているとのことで御座いました。

 御承知のように、日本の水は軟水(ミネラルが少ない)ですが、欧州の水は硬水(ミネラルが多い)ですので、日本人がいきなり大量に飲むと、硬水に慣れていないということがあるようで御座います。

 最後に、パスポートについてで御座ございますが、海外旅行で、生命の(つぎ)に大切なものは、パスポート、お金、そして、復路の航空券と比較されることが御座ございます。海外旅行では 多額の現金を持って行きますことは まず無く、当時 主流でした トラベラーズ・チェック(T/C)(一方[片方]のみにサインをして、番号を(ひか)えておけば、仮に紛失しても、再発行してくれます。)、カード、そして、電子マネー等で支払うと思います。お金でしたら、たとえ 紛失しても、日本から現地に送金してもらうなどして、帰国するくらいの金額は救済されるか、と存じます。ちなみに、日本大使館で 直接 お金を借りることは出来ないとされています。

 ところが、パスポートの場合は、仮に、(なん)か国も旅行すると致しましたら、紛失した国から他国には入国出来ず、その国から日本に帰国することになるとされています。他国からの帰りの航空券を持っていましても、その他国に入国することが出来ず、その復路の航空券を使用することが叶いません。(たと)えば、フランスのシャルル・ドゴール空港や イタリアレオナルド・ダ・ヴィンチ(フィウミチーノ)空港からの復路の航空券を持っていたとして、仮に、西スペインで パスポートを紛失致しましたとすると、フランスイタリアには入国出来ず、西スペインから直接帰国することになると聞かされています。当時、泊まった宿の主人である、西スペインの首都であるマドリード(Madrid)在住の日本人によりますと、西スペインのマドリード(Madrid)でパスポートを紛失される日本人が多いが、大使館・領事館での再発行に3週間かるとのことで御座ございました。仮に、当時の 西スペインですと、万が一まんがいちの場合には、3週間帰国することがかなわなかったということで御座ございます。

 日本にいると、平和ボケすると言う男性大学4回生が見えますが、日本人のパスポート(ほど)、世界各国に入国出来るパスポートは少ない(それだけ日本は努力をして各国に援助をして、信用を回復して来たということで御座ございましょう。)とされていますから、稀少価値があるので御座ございます。当時、日本人のパスポートは、日本円で換算して、数十万円で取引されていると、海外で聞いたことが御座ございます。そういう人達にとって、日本人のパスポートは咽喉頭のどから手が出る(ほど) 欲しいものなので御座ございます。このことを知る、もしくは、わかって行動する日本人は少ないと伺いました。海外では、極力 パスポートを他人に見られないほうがいいです。パスポートのコピーを見せるだけで済む用件で御座ございましたら、パスポート本体は 人前で 決して見せないほうがいいです。海外旅行の準備には、最初必ず日本でパスポートのコピーを致しておりました。貴重なパスポートは、布製の首から()げるタイプの貴重品袋(手作りでも出来ます)や腹巻式の貴重品袋に入れておりました。唯々感謝。(^-^)

 (義務教育の方々かたがたに 美しい日本語を 正しい読みかたで 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名ふりがなを付けております)

 本日も、最後 まで  お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)

You cannot copy content of this page

タイトルとURLをコピーしました