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さて、去る 8年前の10月28日(火)の「スイス(海外のこと)」のブログの上段に、
「(前略)学部生の頃(昭和61年の夏・菜食を始める前のことです)、エコノミー(economy)に、シンガポール航空を用いて、往路、東京(成田・8月19日【火】午後6時30分発)からロンドン(英国)(翌々日・8月21日【木】午前6時55分定刻通り着・日本との時差はサマータイムで、8時間)迄、途中、シンガポールで、丸一日のトランジット (transit)(一時寄港)があり、シンガポール8月20日【水】午前0時着・同日午後8時25分発、南回りで、トータルで、44時間25分でした。(後略)」と記させて頂きました。 因みに、干支で 3周して 36年前の寅年のことであります。
また、去る 6年前の5月14日(土)の「デュッセルドルフ( 独)(ハイネの家)」のブログの中段やや下で、
「(前略)前述致しましたように 午後11時30分に、“Royal”という店で 待ち合わせを指定されましたので、事前に到着しました。最近になって 調べましたら、“Stier Royal”という カフェ( 仏語: café、 伊語: caffè)であるか と思われます。前述の 調理の見習いをしている日本人男性は、この日は 遅番であり この 次の日は ゆっくりのようでした。定刻になって、彼は、おそらく 独人である 金髪の彼女を連れて来ました。 因みに、去る1月17日(土)の『 土・2』のブログの下段に、
『(前略)オーストリアの首都・ウィーン(標準 独語:Wien[ヴィーン]、日本語表記では主に【ウィーン】が用いられますが、標準 独語でのWの発音は [v] であり、【ヴィーン】の表記が近いです。)(後略)』と記させて頂きました。この彼女の ウィーンのWの発音が [v] でありましたので、 独人であるのではないかと思ったのです。なお、デュッセルドルフには 様々な人種の人たちが生活しているとのことでしたので、 独人ばかりではありません。しかも、 独人の女性にしては、小柄でした。(後略)」と記させて頂きました。
すなわち、上記のスイスから 西に向かいました。因 みに、上記の 調理の見習いをしている日本人男性のカップルから 西を勧められました。それで、当初の予定では 西に行くことは 考えていませんでしたが、向かうことになりました。なお、昭和61年(1986年)8月30日(土)の午前5時8分に、途中 仏側の国境の港町である Port bouで 列車を降ろされました。すなわち、寝ていましたが、起こされました。つまり、仏から 西に入国する 国境の駅なのであります。要するに、passport control(出入国審査のこと)の為に 降ろされたのであります。序で乍ら、去る 8年前の10月30日(木)の「東・西ベルリン(東・西独)」のブログの上段に記させて頂きましたように、通常は 列車内に 車掌が来て passport controlが行なわれます。ところが、仏国内では 標準軌であり、西国内では 広軌なのであります。因 みに、鉄道線路のレール(軌条)間隔を表わす 軌間が標準軌の1435mm(4フィート8½インチ)を超えるものを 広軌と云います。それで、両国で レール(軌条)間隔が違うので、列車を乗り換える必要があるのであります。なお、標準軌 と 広軌に対応する為に 両方の車輪を装備している列車も、あります。それで、翌年は その夜行寝台列車を利用しました。すると、passportは 車掌に預けて 寝ている間に 国境を超えることが出来るのであります。
話を戻しますが、passport controlの為に、長蛇の列が出来ました。その間、収容所に入れられる為に 並んでいるような気持になりました。序で乍ら、女性 二人連れの日本人が 居ましたが、日本人は それだけのようでした。なお、ピレネー山脈(仏 と 西の国境にある 山脈)を超えると アフリカであると、西に たいへん 失礼なことを ナポレオンは言いました。
そして、passport control すなわち 入国手続きを済ませ 列車を乗り換えて、午前9時29分に Barcelona(西・カタルーニャ州の州都)のSants駅に到着しました。

列車から見た 日の出

Barcelonaに 到着する迄 に 列車から見た 光景
ときに、そのBarcelonaのSants駅で、荷物を ロッカーに入れようと思いました。ところが、ロッカーが 異例なことに 小さくて 荷物が入らなくて 困りました。因 みに、欧州の他の国々では、このように ロッカーが小さいことは ありませんでした。それで、荷物の ネジを外して、何とか ロッカーの中に入れました。これで、一安心です。なお、駅の構内の外に出ました。すると、そのSants駅前に ジョアン・ミロ公園(西語:Parc de Joan Miro)が ありました。序で乍ら、女 と 鳥という 22mもの巨大な ミロのオブジェであります。因 みに、当初は よく わかりませんでした。なお、西の 列車における 東の玄関口ともいえる Sants駅にしては、駅前が閑散としていました。しかも、下の画像のように、ほとんど 人が居ませんでした。

ジョアン・ミロ公園(上の画像の右下に 昭和61年[1986年]8月30日[土]と 日付が記されています)
そのSants駅から Barcelonaの街が 一望出来ました。

上記のように 一望された Barcelonaの街(上の画像の右下に 昭和61年[1986年]8月30日[土]と 日付が記されていますが、日付が 切れています)
それで、Sants駅から Termino駅(当時は、この名称で 存在しました。なお、現在では 調べますと、Sants駅が 中央駅になっています)迄 歩きました。 因 みに、Barcelonaは 海岸が危ないと聞かされていました。何故ならば、海岸には 港があります。その港に外国船が 停泊します。なお、停泊期間は 短期間であります。その停泊期間が過ぎれば、その外国船は 別の国に向けて 出港するでしょう。すると、停泊中に 何を犯しても、出港すれば 誰の仕業か分からなくなってしまいます。それで、犯罪が増えることになるとのことなのです。そこで、海岸付近が危ないとのことなのであります。
話を戻しますが、途中 スペイン広場を見学して、自動車レース コースを見乍ら、外から カタルーニャ美術館を見学しました。

Barcelonaのアリーナ

Sants駅から Termino駅迄 の 散策

Sants駅から Termino駅迄 の 散策

Sants駅から Termino駅迄 の 散策

Sants駅から Termino駅迄 の 散策
そして、down townを散策して、途中 ワインを飲み乍ら 定食を食べました。なつめは最高でした。 因 みに、去る 8年前の10月24日(金) の「健やかに生活をして頂くために」のブログで お伝え申し上げましたように、医者(研修医)になってから、ポケベル(今は ほとんど用いられていませんね)を持つようになり、夜中でも呼び出されましたので、お酒を止めました。
なお、下の画像の赤ワインは 日本円で 約¥10円でしたが、樽から出して 冷えていなくて やたら 渋かったです。なお、このように渋い ワインは 日本では 飲めないだろうと思われました。序で乍ら、西では このワインが 水代わりに 飲まれている とのことでした。

樽から出した 赤ワイン
更 に、スーパー マーケットにて、ミルク、ミネラル ウォーター そして ドーナツを買いました。 因 みに、ドーナツは なかなか 美味 かったです。但し、多少 油っこいです。なお、ミルクは 一番 美味 かったです。すなわち、独でも そうでありましたが、クリームが多いようでありました。序で乍ら、旅行中に 会った ツアー コンダクター(女性)によりますと、自分が 今迄 旅行した中で 西のバレンシア地方が 一番 よかったとのことでした。

Sants駅から Termino駅迄 の 散策

Sants駅から Termino駅迄 の 散策
それから、Termino駅迄 行ってから、動物園の方に歩きました。白いゴリラは 見ずに、凱旋門に向かって歩きました。すると、Parisから来た大学生(男性) と シベリア横断鉄道を使って 来た 青年(男性)に出会いました。凱旋門のの手前の芝にて 昼寝をします。そして、午後4時になったので、ピカソ美術館開館の為に向かいます。 因 みに、去る 6年前の6月14日(火)の「ボン( 独)(ベートヴェンの生家)」のブログを記させて頂きました。すなわち、この ボンでの ベートヴェンの生家と同様に、列になって 入場を待ちました。なお、その間 煙草の火を点けてもらうように 要求する スリ風の男が 列の周囲を周回していました。誠に有り難いことに、入場は、学生無料でした。序で乍ら、なかなか 面白かったです。因 みに、ピカソの絵は 初期は たいへん デッサンが しっかりしていて まともな絵が多いですが、晩年は あの独特の作風が 現れています。


ピカソ美術館 前(上記のように 列になって 入場を待ちました)
なお、ピカソ美術館を出た後で 凱旋門に行きました。

凱旋門
そこ(凱旋門)から 地下鉄に乗って 「EL MOLINO」に行きました。ここで、宝塚歌劇団のようなショーが開かれているというのであります。 因 みに、午後6時から 午後8時30分迄 でした。なかなか 見応えがありました。なお、入場料金が 500peseta(当時の西の通貨・当時のレートで 日本円で 約¥500円)では、非常に 価値がありました。


(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)

(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)

(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)

(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)

(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)

(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)

(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)

(上の画像の右下の日付が 昭和61年[1986年]8月31日[日]となっていますが、これは カメラの時間合わせの問題でありまして 実際には 上記のように 同 8月30日の夜であります。すなわち、日付が 翌日になってしまっているのですね)
ところで、去る 8年前の10月28日(火)の「スイス(海外のこと)」のブログ、去る 8年前の11月19日(水)の「バチカン(ローマ)」のブログ そして 去る 7年前の1月16日(金)の「一枚の絵画(ブルージュ[ベルギー])」のブログのそれぞれ上段などに、
「(前略)ユーレイル・パス(当時、欧州[ヨーロッパ]以外の地域で購入出来る、欧州の鉄道のパスのこと。日本にも、日本以外の地域で購入するパスがあると聞きました)(後略)」と記させて頂きました。すなわち、そのユーレイル・パスを利用していました。
なお、その後 午後9時47分、Sants駅発の Madrid行きに乗ろうと思うが、この列車はなくて、午後10時30分 Termino駅発の列車に乗ろうとしました。ところが、この列車が Rap(日本語:特急列車)で 寝台のみでありました。勿論 ユーレイル・パスでも 寝台列車を利用することは出来ますが、その為には 駅の窓口が 開いている時間帯に 行って 予約をする必要がありました。 因 みに、翌年の旅行のときには Barcelona駅の窓口が 開いている時間帯に 行って 予約をしました。ところが、この作業が 一苦労でした。すなわち、現在のように 駅の窓口に端末が引かれていて 予約するという訳では ないのであります。つまり、駅員が 電話で連絡して 予約状況を確認して 行われるのであります。しかも、長い列を待たなければなりませんでした。序で乍ら、列車の切符を購入した後は ホッとしました。
話しを戻しますが、Barcelonaに 一泊するつもりでありましたが、急いで 午後11時5分の Sants駅発の列車に乗り込みました。 因 みに、1分前でありました。なお、客車の中 荷物を持って 移動するのは、一苦労でした。なお、2等車両に 黒髪のユダヤ人の女性が 居ました。序で乍ら、何か 得体の知れない 唯物的な 深いものを感じました。そして、漸く 1等車両に 辿り着きました。それから、車掌が やってきて 列車予約証提示するように言われましたが、コンパートメント内の一人(ナショナルで 英語が通じました)と共に 予約券を持っておらず、誠に有り難いことに、結局 ただになりました。
次に、機会がありまして、 宜敷ければ、この続きを記させて頂きます。
(義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)